灯台守のパン

この先は灯台守の眠る部屋 無口な者がパンを届けよ

それは、「いたわり」のレッスン/僕はメイクしてみることにした①

kc.kodansha.co.jp


著者 糸井のぞ
原案 鎌塚亮

 主人公の前田一朗は38歳男性、お菓子メーカーに勤務している。「顔が疲れてますよぉ」と会社で指摘されても特に気にせず、いくぶん投げやり気味な生活を送っていたが、ある朝ふいに顔色の悪さや肌荒れを自覚する。この変化は単なる加齢の影響ではなく、「こうなるまでなーんもせずに放っておいた」自分自身の問題だと思い知るが、さりとてどうやって改善すればよいのかわからない。
 そんな中、偶然ドラッグストアでスキンケア用品の広告が目に入る。《あなたのお肌、いたわってますか?》というコピーに惹かれた一朗は、これまで縁のなかった化粧品やスキンケア用品売り場におそるおそる踏み込み……

 

 頑なに張り付いた「男らしさ」というステッカーを知の爪で剥がそう。ステッカーの下にいる男性は無防備で傷つきやすい。思いやりの心さえある。男性性は性役割の変化といった汚染物質による脅威のせいで常に「危機にある」───というのはニュースのクリシェだ。私は、男性性は多くの点で社会に有害(トクシック)だと考えているので、男性性が「危機にある」なんてセリフは、公民権運動の時代のアメリカではレイシズムが「危機にあった」と言っているようなものだ。男性性は変わらなくてはならない。変わりたくないという人がいるとすれば、申し分ない仕事と申し分ない家庭のある、ミドルクラスの白人男性である。現状の男性性は彼らに都合がいいのだ。では、貧困や機能不全家族から抜け出すには犯罪者になるしかないうえにそれを男らしいと思っている十代にとっては? パートナーも友人もおらず、しまいには自殺を選んでしまう孤独な男性にとっては? 男らしさが産む問題を人に押しつける鼻息の荒い男の場合では? 我々すべての男性は、澄んだ目で自分をよく見つめ、どんな男性ならすべての人のために世界を今より良い場所にできるか考えないといけない。

filmart.co.jp

 「有害な男らしさ」から脱却するにはどうすればよいか。自分を愛すること、弱さをさらけだすこと、肯定することをどう学ぶか。ネットフリックスで配信中のドラマ『セックス・エデュケーション』(2019年~)の最新シーズンでは、「有害な男らしさ」のただなかにいた男子高校生のアダム(コナー・スウィンデルズ)とその父マイケル(アリスター・ペトリ)が、それぞれ愛犬の競技会向けトレーニングと料理をいたわりのよすがにして変化する姿が印象深かった。
 VOCEで連載中(追記:現在は連載終了。2022年2月10日単行本発売)の本作においては、スキンケアとメイクが前田一朗の「いたわり」である。スキンケアについて「そういうことに時間かけるのは男として恥ずかしいって思ってた」と自らを省みる一朗が、化粧水や乳液による手入れを習慣化させ、洗顔のためのターバンを買い、デパートコスメに淡い憧れを抱き、ベースメイクにチャレンジする。その姿は、スキンケア及びメイク初心者に向けた等身大のガイドであると同時に、「有害な男らしさ」の呪縛を少しずつ振りほどく過程でもある。
 おもしろいのは、化粧水の《さっぱりタイプ》と《しっとりタイプ》の違いに悩む一朗が、そもそもこれまで自分の肌質について考えたことがなかったと気づき、「38年生きてきたのに俺自身のことをちっとも知らない」と思いがけず内省的になるところだ(第1話)。内面外面問わず自分のケアに取り組もうとするとき、なによりもまず自分自身に対する理解の深さが求められることを、一朗の気づきはさりげなく提示する。
 なにを補いたいのか、なにを優先したいのか、どういう顔になりたいのか。それを知るには繊細な言語化が必須だ。自分をケアすることは、自分という人間の解像度を上げることに他ならない。ていねいに洗顔すれば、これまでより多少は時間がかかるが、「自分を大事にしてる感じは悪くない」と一朗はさわやかな満足感を得るのである(第2話)。
 ベースメイクの選択肢の多さと複雑さを前に「正直ここまでしなくていいかなって」とくじける一朗を、メンターポジションのタマが「どこまでやりたいか…そこに気づくのすっごい大事だと思うんですよね」と肯定するシーンもみどころだ(第4話)。手間をかけるほどよいわけでも、高価なアイテムを使うほどよいというわけでもない。目標も環境も人それぞれなのだから。「実際やりながら足したり引いたりして近づけていくしかないんですよねえ」というタマの言葉は、メイクの話であり、ひいては自己実現の話だ。

 一朗の同年代の男性キャラクターとして登場する長谷部は、これまで一朗の変化を好意的に受けとめ、励ましてすらいたが、実は彼も「有害な男らしさ」に縛られていることが第7話で明かされる。
 一朗がタマを「師匠」だと説明しても、すぐさま「その子のこと狙ってるんだろ?」と品のない表現で恋愛や性愛の対象に据えなおすセリフには、女性を尊敬や友情を育む相手ではなく「手に入れるもの」としてまなざす意識が滲む。彼自身(一朗がスキンケアに取り組むよりずっと以前から)身だしなみに気をつかうタイプでありながら、一朗のメイクやスキンケアは「男の身だしなみ」ではないと線をひく頑なな態度や、家庭内での孤立にも注目したい。
 一朗がメイクやスキンケアに見出したような「いたわり」が、長谷部にもきっと必要なのだ。感情を言葉にすること、「男ならばこうあらねば」という圧に屈しないこと、自分が好ましく感じるものに手をのばすこと……。
 近くて遠いふたりの男性が、どうやって『「男らしさ」というステッカーを知の爪で剥が』し、どんな「いたわり」にたどり着くのだろう。メイクにレッスンが不可欠なように、自分を大切にするにもレッスンが要る。「こうなるまでなーんもせずに放っておいた」一朗の肌が日々のケアで美しくなったのだ。「有害な男らしさ」の檻を壊すのに、遅すぎるということはきっとない。