灯台守のパン

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「もし」から始まる性差別への問い/ヒヤマケンタロウの妊娠

 50年ほど前から、各地でシスジェンダー男性の妊娠が相次ぐ世界──。
 主人公・桧山健太郎は、都心の広告代理店に勤めている。社内外ともに競争相手の多い業務をそつなくこなし、プライベートでは複数の相手と同時進行で気軽なデートを楽しむ。独身を謳歌し、育児のため仕事を早めに抜ける同僚を「“子煩悩”って言えば聞こえはいいけど、実際重要な仕事には就けないよなぁ」と遠く眺める日々だ。
 そんな桧山だったが、思いがけず妊娠が発覚する。

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2022年 日本
監督 箱田優子、菊地健雄

 現実世界の女性が妊娠・出産において被る性差別や不平等、社会のすみずみにまで根を張る男性特権を、フィクションのシスジェンダー男性キャラクターである桧山健太郎斎藤工)の視点で描くドラマだ。もしシスジェンダー男性が妊娠したら? その“if”を切り口に、誰もが大なり小なり内面化してしまうジェンダーバイアスを丹念にあぶり出す。


 妊娠後の桧山は、つわりをはじめとする体の変化に悩んだり、キャリア形成に不安をおぼえたりする。一方、セックスのタイミング的に母親と推定される亜季(上野樹里)は、「ほんとに私の子なの?」と反射的に疑ってしまったり、中絶同意書を差し出す桧山に「健太郎がもし産みたいって言ってくれたら、私は自分で産まなくても子どもが持てるわけでしょ」と、自分にとってのメリットを説いたりする。桧山が負う身体的・精神的苦しみは、従来のドラマであれば女性キャラクターが負ってきたものだし、亜季のうかつな発言は、往々にして男性キャラクターが発してきたものだ。
 性差を逆転して展開する本作には、観る者の価値観をかき乱すシーンが随所に散りばめられている。だが、妊娠・出産における苦しみや問題提起を、現実世界の女性を代表して桧山が「代弁」することが手放しですばらしいのかというと、決してそうではないだろう。男性が当事者になったとたん革新的であるかのように扱われてしまう危うさには慎重でいたい。だって、これまでの女性たちは、既にさんざん声をあげてきたのだから。
 それを桧山自身が自覚しつつあることは重要なポイントだ。第4話、桧山がSNSでマタニティグッズのデザインについて意見を述べると、あっという間にたくさんの「いいね!」がつく。その様子を見た後輩の田辺が、「当たり前のことを言うだけでバズるんだから、女性の支持を得るって案外簡単だなぁ」とバカにするのだが、桧山は「それだけ女性の声が無視されてきたってことでしょ。男が言うならみんな聞くんだよ」と苦々しく返すのだ。
 このあと続く「へー、人って妊娠するとフェミニストになるんですね」という田辺のせりふには、女性蔑視と男性妊夫蔑視が絡みあっている。男性妊娠にともなって「男らしさ」「女らしさ」が揺さぶられ、妊娠の前後で桧山のアイデンティティが重層的になるところも示唆ぶかい。
 妊娠前は社内ヒエラルキーのトップに君臨していた桧山は、妊娠後、体調の不安定さやそれをごまかそうとするぎこちなさなどからプロジェクトリーダーを外されてしまう。彼にとってはまさしく挫折だが、多忙なポジションから降りてみれば、「誰にでもできる作業」を女性社員が担っていることに気づく。
 妊娠を打ち明けたのちは男性妊夫モデルとして華々しく登場し、「いち会社員で終わるか、それともこの身をさらして自分の価値を上げるか。後者を選んだだけ」と飲み会で饒舌に語る。新バージョンの「スマートな桧山健太郎」像を確立したかのように見える。しかし、かつてデートした相手からは「“お父さん”はギリギリ恋愛対象でも、“お母さん”は無理だから」と突き放され、複雑な思いをかみしめるのだ。
 さらに第5話では男性妊夫への差別や偏見が描かれ、生きづらさを想像させる。が、第6話、桧山と父の栄一(リリー・フランキー)が女性の亜季に対して敬意なく事業を手伝わせようとするシーンも見逃せない。

 桧山は、これまで信じてきた「男らしさ」を一部はく奪されたかのような虚しさを抱えつつ(男性妊夫コミュニティに蔓延するミソジニーはなかなか根深そうだ)、依然として男性特権の上にいる。男性中心・優位社会を生きるシスヘテロ男性というマジョリティ性と、男性妊夫というマイノリティ性。そのはざまで葛藤し、自身を語ることばを探す過程にいるのだ。

 複合差別≒交差性をこの身で、この日常で、自らの言葉で生きるとは、民族差別、性差別、障害者差別、種差別などをぜんぶ同時に考えればいいとか、それらをすべてうまく包摂すればいいだろう、というような話ではありません。それぞれの人間としての生の必然性に従って、ある面では被害者の自分が別の面では加害者になったり、自分の中の根深い差別的な情動に気づいたりして、混乱し、沈黙をも強いられながら、自分の欲望を──内面化し得ない他者性に貫かれて──生成変化させていくことであるのでしょう。
 まっとうであるとは、複合差別状況の中でも、他者と自分に対する繊細な想像力を持ち続けられること、葛藤し続けられることです。戸惑いや葛藤を抱えた男性のままに、社会変革的=性平等的な男性であろうとすること。社会/自分の中に差別と被差別、加害と被害などが交差的に複合し、絡み合っているがゆえに、何らかの失語や沈黙を経験せざるをえないけれども、それでもなお永続的な努力によってまっとうさや社会正義を──個人的なレベルと集団的なレベルのいずれでも──漸進的に目指していく。大切なのはそういうことではないでしょうか。(杉田俊介著『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』集英社新書、2021年)

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