灯台守のパン

この先は灯台守の眠る部屋 無口な者がパンを届けよ

「提供する側」と見なされること/ポリタスTV「女のくせにビール?」飲食とジェンダーバイアス

ポリタスTV 2024/2/13配信『「女のくせにビール?」飲食とジェンダーバイアス』回を観た。出演者の白央篤司さん(フードライター・コラムニスト)のご著書についてはこちらの記事でも書いているので、よかったらご覧ください。

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白央篤司さんがこれまでのお仕事や暮らしで感じた飲食に関するジェンダーバイアスと、ご自身のX(旧Twitter)で募った同テーマの体験談を紹介しながら番組は進む。


番組内で扱った内容よりやや広範になってしまうが、私個人の「飲食に関するジェンダーバイアスを感じた出来事」を振り返ってみると、私(女性)が「提供する側」であると勝手に見なされるパターンが多い。それが強いストレスになっている。

「提供」の中身は多岐にわたる。食卓におけるケアや気遣い、盛りの良い皿やおかずを男性に譲ること、無礼な質問や会話に笑顔で応じることまでも。

男性と外食中、取り分ける大皿料理が運ばれてきたとき、私の側に向けて置かれるトング。複数人での飲み会中、参加者の男性が無言で私の目の前に差し出してきた鍋の取り皿。料理雑誌のレシピに「夫が太鼓判を押しました」「いつもは何も言わずに食べる旦那がおかわりしました」といった女性読者からのコメントが添えられ、「男性・男性配偶者が認めた料理=良い料理」の構図が強化されていくこと。学生時代の部活で毎年行われていた、女子部員が弁当を用意するピクニックイベント。夕方や夜にひとりで外出したり、人と話したりすると、会った相手から「旦那さんの夜ごはん、つくってから来たんですか?」と聞かれること。

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ちなみに、現在の私は、複数人の飲み会や会食などの機会が少ない生活をしている。酒は飲まない。外食より自炊が多い。その理由を、性格や食の好みを踏まえて「人が多い場所は苦手だから」「下戸だから」と思っているが──それはたしかに間違いではないのだが、意識的にせよ無意識的にせよ、自分が「提供する側」と見なされそうな場所や集まりを避けているふしはあるかもしれない。

(飲食そのものからは少々脱線するが、とある喫茶店を夫と利用したとき、男性店員が私の全身を値踏みするように見た。そして隣の夫にニヤリと笑いかけて「いやぁ、羨ましいな」と言った。その瞬間、私という個人と尊厳と感情の一切は夫に「提供」されてしまった。こういう目に遭うと怒りより絶望が上回り、行動範囲を狭めたくなる)

しかし、飲食に関する諸事を「提供する側」だという圧を、強烈に内面化している自覚もある。キニマンス塚本ニキさんが仰っていたような、複数人で食事をしたあと男性たちは寛ぎ、女性たちは片づけをし……という状況になったら、私は不満を抱えながらも片づけ役に回ってしまうかもしれない。食事の片付けを「提供する側」だと思ってしまっているから。

道のりは長く、問題は根深い。けれど、こういうテーマの番組があること自体が希望だとも思う。

座りっぱなしの男を真似る子らのうち女のみキッチンに呼ばれて
(小松岬 連作『私たちの草上の昼食』より

ままならない人生にも希望がある/ベイビーわるきゅーれ1&2

▼ベイビーわるきゅーれ(2021年)
 深川まひろ(伊澤彩織)と杉本ちさと(髙石あかり)は、殺し屋協会に所属するプロの殺し屋コンビ。高校卒業後は寮を出て独立するという協会のルールにしぶしぶ従い、東京・鶯谷で二人暮らしを始めたばかりだ。
 慣れない新生活では、家賃の支払い、料理、洗濯など、初めて自力で取り組む生活のこまごまとしたTO DOに翻弄される。だが二人にとって最も高いハードルは、殺し屋以外の「表向きの仕事」を得て継続的に就労することである。コミュニケーションが不得手なまひろは面接に立て続けに落ちたり、短気なちさとは職場で大立ち回りを演じてクビになったりと、なかなかうまくいかない。
 まひろはちさとに頼み込み、ちさとと同じバイトの面接を受けることに。しかしそこは、まひろが苦手な接客能力を求められるメイドカフェだった。

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▼ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー(2023年)
 二人暮らしがすっかり馴染んだまひろとちさとは、不器用ながらも仲睦まじく共同生活を営んでいる。しかし、彼女らの命を虎視眈々と狙うアマチュアの殺し屋兄弟が現れる。彼らの名は神村ゆうり(丞威)と神村まこと(濱田龍臣)。
 神村兄弟は殺し屋協会に正規に所属しておらず、仲介役の赤木(橋野純平)を通じて協会の下請けの殺しをこなすポジションだ。が、ミスが多く手際も悪い。まひろとちさと程の実力は無い。先行きの見えない彼らは「正規の殺し屋を殺せば、空いた枠に繰り上がって協会に登録される」という噂を信じ、一発逆転を狙うことにしたのである。

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 監督 阪元裕吾、アクション監督 園村健介による『ベイビーわるきゅーれ』(2021年)および次作『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』(2023年)は、主人公 まひろ&ちさとの仕事パートと私生活パート、シリアスパートとコメディパートを絶妙なバランスとグラデーションで描き分けたアクション映画シリーズだ。2024年秋に3作目の公開を控えている。
 本シリーズ内で、まひろとちさとは「年若い殺し屋の女性キャラクター」というフェティッシュな性的記号として消費されていない。喜怒哀楽も尊厳も、生活も悩みもある一個人としてディティールを積み重ねられていく。時に気だるく、時にハイテンションに繰り広げられる会話のテンポや親密な暮らしぶりは語り尽くせないほど魅力的だが、本稿ではまひろのアクションに焦点を当てたい。

 まひろのアクションは、演じる伊澤彩織さんのスタントパフォーマーとしての実力が遺憾なく発揮されていて非常にクールだ。ちなみに、まひろもちさとも、アクションシーンで衣服が破れたりプライベートパーツがクローズアップされたりするような演出が一切ないので、安心して観ることができる。
 状況や対戦相手によって異なる工夫があり、どれもすばらしいのだが(銀行強盗を手近な道具で小気味よくいなし、「ほらほらどうした」と言わんばかりにファイルを軽く叩くしぐさの格好良さ!)1作目冒頭、コンビニ店内での格闘シーンは見る者に忘れがたい印象を残す。
 バックヤードで面接を受けていたまひろが、店長(大水洋介)の高圧的な態度に耐えかねて彼を撃ち殺して店内に戻ると、複数の男性店員が彼女を待ち構えていて……というところから始まる当該シーンで、まひろは終始落ち着いている。相当の場数を踏んでいることがわかる。スピードも、度胸もパワーも、テクニックもある。圧倒的に強いのだが、対戦相手である成人男性との体格差・体重差・人数差により、折に触れて体を引きずられたり、引っ張られたり、抱え上げられたりするのだ。けれど、まひろにとって対戦相手との体格差・体重差・人数差はとくべつ想定外ではないらしく、これらの要素込みでトレーニングしていることを窺わせる動きをする。
 まひろが群を抜いて優れたファイターであることと、とは言え油断すれば負ける可能性があることが同時に伝わる。勝ち負けのぎりぎりを攻めるエッジの効いた緊張感はひどく生々しくて、一気に惹きつけられてしまう。

 しかし言うまでもないことだが、前提として、まひろがいかに強かろうが1人vs複数人はアンフェアな対戦カードである。これと対極の限りなくフェアなカードとして、2作目ラストのまひろvsゆうりを挙げることができるだろう。
 人数的な意味でもそうだが、お互いに対するまなざしがフェアなのだ。いや、物語の経過に伴ってフェアなものに変化したと言うべきか。まひろ&ちさとも、ゆうり&まことも、物語序盤では相手チームをやや甘く見ているのだが、その視線に少しずつ同業者同士の親しみやリスペクトが滲んでくる。

(ちさと)「あいつら、うちに所属したら良い殺し屋になれたかもね」
(まひろ)「うん。結構やるようになってきたな、あいつら」
(略)
(まこと)「あいつら、仲間だったら楽しかったのかな」
(ゆうり)「かもな。でも、あいつらとはこうしているのが一番楽しいだろ」

 女性キャラクターと男性キャラクターの関わり方において、恋愛や性愛の感情の芽生えを最上位とする傾向がいまだ根強いなか、仕事の腕を素直に称え合い、且つヘテロ的恋愛の文脈に回収されないという稀有な着地点は胸を打つ。気絶から目覚めたゆうりとまひろが交わす「おはよう」は、夏休み明けの教室の朝や、部活の合宿所のような、なんとも言えない素朴さと瑞々しさで溢れている。
 このシーンでのまひろの戦闘能力は、ターゲットを倒すことのみならず、同業者とのコミュニケーションツールとしても機能しているのだ。人物に表情があるように、アクションにも表情があることを、まひろの身のこなしを通して今更ながら私は知る。スタントパフォーマンスというジャンルの豊かさと奥行きに圧倒される。

 大半の生身の人間と同じように、まひろは数多の欠点を抱えている。振込は期限内に済ませられないし、洗濯機に衣服以外を放り込んで壊してしまう。バイトの面接には落ち続ける。コミュニケーション能力の低さゆえに自己嫌悪に陥ったり、大切なちさとに八つ当たりしてしまったりする。まひろには、まひろの手に負えない分野がかなりたくさんあるのだ。
 そんなまひろが繰り出す鋭いキックや、唸るパンチは、「ままならない人生のなかでコントロールできる数少ないもの」として、小さな希望の姿をしているように思えてならない。まひろは不器用で口下手だが、アクションはスマートで力強く、饒舌だ。そういうものが、一人一人にあるのかもしれない。これを読んでいるあなたにも(たとえば私個人について言えば、その場で考えて人前で話すことは不得手だが、時間をかけて考えて文章を書くことには自由を感じる)。
 ままならない心と体と人生を、ほんのひととき完璧に支配するまひろの堂々たる身のこなしに、同じくままならない世界を生きる私は揺さぶられる。日々の生活をなんとか送るだけで精いっぱいで、苦手なことに落ち込んで、つい忘れがちになる自分の強みやポジティブな可能性を、まひろのアクションを通して思い出したくなるのだ。3作目ではどんなアクションが観られるのか、楽しみでならない。

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世界はどこまでも広く/あの夏のルカ

シー・モンスターの少年ルカは、両親と祖母とともに海で暮らしている。シー・モンスターは肌が乾くと人間の姿に変わる性質を持つが、ルカの両親は人間や人間の世界に対して否定的で、息子が地上に興味を持つことを良しとしない。シー・モンスターと人間は相容れない存在なのだ。

ある日ルカは、自分と同じシー・モンスターの少年アルベルトと出会う。アルベルトは人間の姿にすっかり馴染み、地上で父と暮らしているのだと言う。両親に叱られるのではないかと怯えつつも、またたく間にアルベルトと親しくなるルカ。いつしかふたりは、ひとつの目標を共有する。それは、「座るだけで世界中どこにでも行ける」夢の乗り物、ベスパを手に入れることだ。

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あの夏のルカ(Luca)
2021年 エンリコ・カサローザ

ローマの休日』(1953)で自立心とロマンスの象徴として登場したベスパが、本作ではそれらの要素に加え、息をひそめて暮らすマイノリティが自由を得て夢をかなえるアイテムとして描かれる。さらには、アン王女とジョーの恋がたった一日でありながら長くアン王女を力づけるように、ルカとアルベルトの念願のベスパはごく短期間で売却され、ルカを終わりのない知的好奇心の旅へ導くのである。

あたらしい乗り物が与えてくれる可能性は大きい。映画『スケーターガール』(2021)では、インドの貧しい家庭出身で教育の機会に恵まれず、生理中は寺院に入れず、近いうちに当然結婚して子を産むことを期待されている少女プレルナ(レイチェル・サンチタ・グプタ)がスケートボードに出会って変わる。自分の意思が自分の体を好きなところへ連れて行き、思いどおりに行動することは、マイノリティにとっては奇跡めいた行為なのだ。

学校も他人も要らないと息巻いていたアルベルトが、ルカのなかに芽生えつつある学問への憧れを尊重し、彼に進学を勧めるラストシーンは切なくも見事だ。これだけだとアルベルトがあまりに犠牲的に見えるが、彼は彼で、心優しい保護者(ジュリアの父)との暮らしが始まろうとしている。
それぞれにとって申し分のない人生の新章である。ただ、ルカとアルベルトが一緒にいられないことが胸をしめつける。彼らの別れの寂しさにこそ目をこらしたい。ともにベスパで冒険しようと笑い合っていた頃より、お互いを思うからこそ離れることを選んだ今のほうが、この世界を信じがたいほど広く感じるだろう。

【追記あり】お知らせ/文学フリマ東京36に出店します

文学フリマ東京36(2023年5月21日(日))に出店します。
小松岬のブースは【第一展示場 Q-08】、出店名は【入船出船】(いりふねでふね)です。※小松岬本人は不在です。

bunfree.net


Webカタログはこちらです。

c.bunfree.net

Twitterでも告知しています。

 

新刊「私たちの草上の昼食」は、「参加可能型連作」です。小松による短歌30首のあとに、もし必要でしたら、あなたの短歌を続けてみませんか。
詳細は、上記WebカタログもしくはTwitterをご確認いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いします。


【追記】
新刊「私たちの草上の昼食」は、既刊「しふくの時」ともに、下記書店で取り扱っていただいております。

本屋lighthouse様

books-lighthouse.com


twililight様

twililight.com

台所で孤独にならない・させない/台所をひらく 料理の「こうあるべき」から自分をほどくヒント集

フードライター・白央篤司さんの連載「名前のない鍋、きょうの鍋」が好きで、追いかけて読んでいる。

withnews.jp

鍋の湯気の向こうに見えるひとりひとりの人生、他者とのかかわり方、くだした決断、かつての夢と今の夢を尊重する真摯な文章が心地よい。加えて、「女性だから○○」「男性なのに○○」といった決めつけが文中にない。なんといっても、インタビュイーの男性配偶者を「ご主人」ではなく「夫さん」と書いている!


そんな著者の最新刊がこちら。自身の生活を振り返りながら、日々の献立や買い物の考え方、料理に対する力の抜き方、楽しみ方などを、素朴な語り口で提案するレシピ&エッセイ集である。

www.daiwashobo.co.jp

人と暮らすに際しての教科書にうってつけだ。もしこれから同居の予定があるのなら、料理を中心とした暮らしの共通認識を深めるために、同居予定の相手と一緒に読んでみるといいかもしれない。もちろん、今現在すでに誰かと暮らしている人にも寄り添う内容だ。新型コロナウイルスの流行(あるいはそれ以外の理由)により生活が変わり、在宅時間が増え、同居人と自分の家事バランスに悩んでいる人にも、きっと向いている。

日々の食事づくりには、ハードルがいくつもある。「料理担当者」の悩みは尽きない。
プロ並みとはいかずとも、ある程度は見た目や味に満足したいし、喜びを得たい。メリハリをつけて贅沢もしたい。自分の料理の味に飽きたらどうしよう? スーパーのお惣菜は心強い味方だが、毎日買うには割高だ。買い物に行く余裕がないときは? 献立を考えられないほど疲れているときは?

……と、挙げればキリがないが、きっとなにより辛いのは、食事づくりのハードルや悩みの数々を、料理担当ではない同居人が分かち合おうとしないときではないだろうか。
その辛さに、本書は柔らかくも的確に切り込んでいる。

 

 人はどうしても、すべてに優劣や順位を無意識のうちにつけてしまいがちである。家庭生活に関しては、「稼ぐこと」が何より大変で、「えらいこと」……なんて考える人は、さすがにこの現代少なくなってきていると思いたいが、大事なのは家事に関して「誰でも出来るようなこと」「大したことじゃない」と考えてしまわないことだ。(p105)

 世の中のいろいろな仕事に関しては「想像もつかないけれど、仕事それぞれにそれなりの大変さがあるのだろう」と考えらえる人はわりにいると思う。
 家事についても同じように、思えるかどうか。(p107)


本書のタイトルは「台所をひらく」だ。孤独に追いやられ、苦しみながら台所に立つのではなく、台所の内側からも外側からも扉を「ひらいて」こそ、共同生活はフェアなものになる。
料理担当ではない人に向けた「「食べる人」は何を考えて、どう動く?」(p114~)は、まさしく台所の外側からのアプローチである。また、「家庭料理って、つまり何なのでしょうね」(p142~)では、「家庭的」という言葉を近くに遠くに捉え直すことで、家庭料理がいかに個人的な営みであるかを唱えている。

 

 ちなみに「家庭的」を辞書(新明解 第7版)で引いてみると「家庭の円満や家族の健康などを何よりも大事にする様子」とある。
 もうこの時点で厄介である。「何よりも大事に」というところに献身的なものが読み取れはしないだろうか。自分の意志や都合よりも、家族の意向や栄養バランスを重視、優先する誰かの姿が「家庭(的)料理」という言葉からは見えてくるときがある。(p142-143)

 

「女性は料理するべき」「女性は料理上手であるべき」といったジェンダーバイアスは、まだまだ根強く残っている。「家庭的」であることを求められて傷ついた経験は、料理への向き合い方を複雑にする。女性自身、女である以上は「料理好き」で「家庭的」でなければいけないのだと内面化し、苦悩することもあるだろう。

パートナーの有無、家族構成、ライフスタイル等にかかわらず、食べることは生涯続く。なによりもまず自分の快適さのために、そして自分が孤独にならないために──もし誰かと同居していて、同居人が日々の料理を担ってくれているなら、その人を孤独にさせないために──できることはたくさんある。あなたの家の台所の扉は、ひらいているだろうか。

女友達のタフラブの10年/わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜(~3巻)

星置みなみは、東京で働く23歳の女性。フォロワー4人の非公開Twitterアカウントで、表立っては言えない愚痴や本音を吐き出すのが習慣だ。本命の恋人と数多の浮気相手を行き来する恵比島千歳に片思い中だが、望みは薄い。みなみの相互フォロワーで友人の栗山由仁は、不誠実な千歳に振り回されるみなみに呆れつつも心配している。

みなみはある日、池袋駅の地下道で、見知らぬ男性からわざとぶつかられて転倒してしまう。身体的な痛み以上に精神的なダメージを受けるみなみ。呆然としていると、巨大な魚を胸の前で抱えるような奇妙なポーズの男性が「大丈夫ですか?」と声をかけてきて……

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瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』(2022年、講談社)は、性差別の問題を「男性vs女性」ではなく、「女の敵は女」論にも与せず、あくまでも「社会構造」で語る真摯なフェミニズムコミックである。複数のキャラクターの視点を交錯させながら、性差別によるさまざまな苦しみや葛藤を多面的に掘り下げてゆくのが見どころだ。2023年4月現在、3巻まで発売中。

トピックが多岐にわたる本作において、私がもっとも心惹かれるのはみなみと由仁の関係だ。生まれ育った環境、性格、恋愛のスタンス、フェミニズムとの距離感などが異なるみなみと由仁が、10年の空白を経ておそるおそる交流を再開する展開がとても気になる。だって、これは女友達同士の「タフラブ」の実践ではないかと思うからだ。

タフラブ」とはなにか。信田さよ子タフラブ 絆を手放す生き方』(2022年、dZERO)より以下を引用する。

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タフラブ」(tough love)は、日本語では「手放す愛」「見守る愛」などと訳されている。
 このことばは最初、「アラノン」(Al-Anon)という、アルコール依存の問題を持つ人の家族や友人の自助グループアメリカでアルコール依存症の夫を持つ妻たちが中心になってつくられた)で使われたとされている。その背景には、アルコール依存症者の妻たちの長い苦闘の歴史がある。(p18)

 アラノンには多くのアルコール依存症者の妻たちの経験を通した知恵が結実している。
 たとえば「これ以上飲むと死ぬよ」と酒を取り上げたり、「このまま飲み続けるんだったら別れる」と脅したりすることは、結果的に夫がもっと酒を飲むことにつながる。むしろ、「飲むか飲まないかは、あなたの問題です」と距離をとった言い方をして、飲んでいる夫を家に残し、自分はアラノンのミーティングに出ることを続ける。このような対応が積み重なった結果、酒をやめる夫があらわれた。
(中略)
 密着し、尽くすことで夫を救うことはできなかった。それよりも、勇気をもって手を放すことが、結果的にアルコール依存症から夫たちを救った。それこそが、愛なのではないだろうか。やさしく不安に満ちた壊れそうな愛ではなく、勇気に満ちた愛。そこから生まれたことばが、「タフラブ」なのである。
 家族のために尽くすことは、日本では「よいこと」とされている。とくに女性にとっては夫や子に尽くすことは「これぞ女の鑑」と言われ、評価される。二〇二二年になってもそれは変わっていない。
 はたしてそうなのかと疑問を投げかけ、反転させるような「タフラブ」の考え方は、まさに革命的といえるだろう。(p22-23)

「タフ」ということばには、伝統的な「ラブ」の概念をひっくり返す意味合いが含まれている。それまでのラブの概念はアタッチメント(愛着)を基本としていたが、それをひっくり返したタフラブはデタッチメント(脱愛着)をうたっている。それが「手放す愛」なのだ。(p30)

 タフラブは、相手にわかってもらおう、相手にわからせようとすることのない愛といえる。また、わかってあげようとはしない愛でもある。
(中略)
 タフラブは、「理解し合いたい」「コミュニケーションをとりたい」という、時には身勝手な欲望や思い込みを手放す愛でもある。(p120)


千歳に支配されるみなみの姿が痛ましく、同時に歯がゆくもあった由仁も、由仁に「つらければ離れたっていいのよ」と言葉をかけた上司の赤井川(第10話)も、そして「背負いすぎの民やめる!!」と決意しみなみと距離を置いた由仁も(第11話)、薄情ではない。みなみを突き放したわけでもない。また、言うまでもないことだが、千歳を拒めないみなみは悪くない。

彼女たちは、意図せずタフラブに取り組んだのではないか。友人のうずらにどう関わってゆくべきかを相談する際の距離感も(第14話)、由仁がトライする「本当のおせっかい」も(第16話)、自分たちの関係性の輪郭や境界線をそっとなぞり直すような慎重さがある。まさにタフラブの精神だ。
そう思うことは、私に希望をもたらす。

これを読んでいるあなたも、よかったら思い出してみてほしい。みなみと由仁のように、親しかったはずの女友達に連絡をとらなくなったことはないだろうか。
とても好きだったのに、直接ケンカらしいケンカをしたわけでもないのに、なんとなく疎遠になったことはないだろうか。
卒業後、就職後。収入が増えた後、あるいは減った後。恋人やパートナーができた後。結婚後、離婚後。出産後。あるタイミングから、以前のように楽しく喋れなくなったことはないだろうか。

たとえば、映画『子猫をお願い』(2001年、韓国)では、高校生活を仲睦まじく過ごした女性五人が、卒業後、世間に蔓延るルッキズムや経済格差や性差別に傷つけられて卑屈になったり、互いに嫉妬心を抱えたりする過程が繊細に描かれている。このあらすじ、身に覚えはないだろうか。
個人個人の相性の良し悪し以前に、あらゆる場所、あらゆる人間関係にアメーバのごとく侵入する男性中心的・家父長制的価値観によって女性と女性のつながりが切り刻まれたことや、対立を煽られたことはないだろうか。私にはある。

かつて「思ったことは吐き出したいけど知らん人にジャッジされたくない」(第1話)と居酒屋のトイレから第四の壁を破って主張していたみなみは、由仁の「気持ちをちゃんと言葉にするところ」が好きで、10年かけて自身も「「言葉」を手に入れた」と語る(第11話)。こんなふうに、女友達はもっと豊かに、もっと勇気と安寧をもたらす関係になれるはずなのだ。みなみと由仁のような友情の再構築が、あなたと誰かにも、私と誰かにも、もしかしたら可能かもしれない。

あなたの「変身」が私を変える/メタモルフォーゼの縁側

 佐山うらら(芦田愛菜)は、人付き合いが苦手で内向的な性格の17歳。迫りくる受験シーズンになんの展望も持てずにいる。
 うららはある日、アルバイト先の書店にやってきた高齢の女性が、『君のことだけ見ていたい』というBLコミックを購入したことに衝撃を受ける。
 客の女性は75歳の市野井雪(宮本信子)。夫を亡くし、今はひとり暮らしだ。自宅で書道教室を営み、心身は健康だが、少しずつ体力の衰えを感じている。雪は、なにげなく買った『君のことだけ見ていたい』にみるみる引きこまれる。
 思いがけずBLコミックの世界に夢中になった雪と、BLコミックが大好きという気持ちを誰とも共有したことがなかったうららは、同じ作品のファン同士として58歳差の友情を築いてゆく。

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メタモルフォーゼの縁側(2022年 日本)
監督 狩山俊輔

 鶴谷香央理による同名コミックの映画化。うららと雪の年齢差や体力差を随所に感じさせつつ、ふたりきりのファンコミュニティとして交流を深める姿を繊細に描き出す。
 うららと雪が陽の当たる縁側で語り合うシーンはなんとも言えず愛おしいが、まさにこれから人生の夜明けを迎えようとしているうららと、人生の黄昏時にある雪とでは、それぞれが感じている太陽の陽ざしの色は異なるのかもしれない。異なる時間を生きるふたりが、ほんのわずかな邂逅を、わずかだからこそ、永遠のように慈しむ。その貴重なひとときをすくいとった誠実な映画だ。

 本作には、ふたりの女性の友情物語という軸と、タイトルが示す通り「変身」物語の軸がある。そして、この両軸は相互に作用し合っている。
 雪は、BLコミックに初めて出会うという「変身」を果たし、夢中になって読み、語り、「私がうららさんだったらねぇ、もう描いてみちゃうかもしれないわ、自分で」と何気なくこぼす。
 うららは驚き、才能が無いだの読むほうが好きだのと言うが、あらゆる葛藤や卑屈な思いをのりこえて、『遠くから来た人』というBLコミックを描きあげるのだ。これがうららの「変身」である。

 うららの「変身」は、余裕がないし、軽やかでもない。笑顔にあふれているわけでもない。気恥ずかしさや情けなさ、力の無さとつねに隣合わせだ。
 でも、そこにはひとつ、とても大切な感覚がある。漫画描くの楽しい? と雪に聞かれたうららは、こう返すのだ。

あんまり楽しくはないです。自分の絵とか、見てて辛いですし。でも、なにかやるべきことをやってるという感じがするので、悪くないです。

 うららと雪の「変身」の影響は、両者間に留まらない。ふたりが愛してやまない『君のことだけ見ていたい』の作家・コメダ優(古川琴音)にも届く。また、字の稚拙さを恥じて当時好きだった作家にファンレターを出せなかった雪の幼少期にも、「変身」の余波が及ぶ。書道のキャリアを積み、75歳になった今、それはそれは美しい字でコメダ優宛てのファンレターをしたためる雪の姿には、時間を重ねることの尊さが垣間見える。本作は、創作活動における幸福なバタフライエフェクトで満ちているのだ。

 幼なじみの紡(高橋恭平)の恋人・英莉(汐谷友希)が、学校で友達と楽しそうにBLコミックを広げる姿に嫉妬していたうららが、「変身」を経て、彼女に対する振る舞い方を変えるのも良いシーンだ。うららと英莉は違う感性で生きており、うららは華やかな美貌を持つ英莉を遠く眺め、英莉は紡と親しいうららをほんのかすかに意識している。でも、この映画はふたりを決して対立させない。このような対立の回避は、近年では『あのこは貴族』(2021年)でも印象的だった。今後ますます増えてほしい女性表象である。