灯台守のパン

この先は灯台守の眠る部屋 無口な者がパンを届けよ

「傍観者」の名は/ザ・モーニングショー

tv.apple.comThe Morning Show
2019年~ アメリ

 ニューヨーク在住のアレックス・レヴィ(ジェニファー・アニストン)は、ミッチ・ケスラー(スティーヴ・カレル)とのコンビで、大手テレビ局UBAの報道番組『ザ・モーニングショー』のメインキャスターを15年もの間務めている。抜群の知名度と好感度を誇るふたりだが、ある日、性暴力の告発を複数受けたことをニューヨークタイムズ紙に報じられてミッチが解雇される。
 一方そのころ、ウエスバージニアの炭鉱の抗議集会で、ローカル局のリポーターであるブラッドリー・ジャクソン(リース・ウィザースプーン)が参加者に向かって激しく怒鳴る動画がSNSで拡散された。歯に衣着せぬ彼女の訴えは世間の注目を集め、やがてザ・モーニングショースタッフの目に留まる。ミッチの性暴力事件に動揺する局内は、一風変わった“明るいニュース”としてブラッドリーのインタビューを放送すべく、彼女をニューヨークに呼び寄せるのだが……



 セクシュアルハラスメントや性暴力被害を告白するハッシュタグ・アクティビズム「#MeToo」の隆盛を物語の背景に据えつつ、性差別・性暴力の実態とその周辺の人間関係を丹念に描く秀作だ。加害者はもちろん、性暴力を黙殺した「傍観者」たちとそのコミュニティが犯した罪を深くするどく探ってゆく。
 アレックスは複雑なキャラクターだ。経済的成功をおさめ、名声を手にし、“UBAの朝の顔”として君臨し続けている点では間違いなくアメリカ社会の特権階級の人間だが、そのアレックスですら、白人男性が大多数を占めるUBA経営層によって捨て駒のように扱われそうになる。
 彼女は白人優位社会で優遇され続けてきた勝者であると同時に、男性優位社会で居場所を失わないため「男性的タフさ」を図らずも内面化してきたサバイバーでもある。世間の反応や批判を極度に気にし、成功者としての王冠を戴きながら王冠の喪失をつねに恐れる。苛烈で、傲慢で、傷つきやすく、それでいてときおり無防備なくらい素直。重なったいくつものレイヤーの向こうに、腹立たしくも奇妙に忘れがたいアレックス・レヴィという女性が生々しく佇んでいる。
 はじめこそ「ザ・モーニングショーの再興に尽力する健気なベテランキャスター」というポジションにいたアレックスだが、性暴力事件の根本的な責任は追及されないつもりでいた彼女の足元は、ミッチの後任のブラッドリーによって大きく揺さぶられる。アレックスが────ひいては多くの番組関係者が、ミッチによる女性スタッフへの性差別・性暴力を看過していたことが炙り出されるのだ。
 アレックスの生き方は、性差別が単純な「男性対女性」の対立に終始するものではなく、男性優位社会の構造の問題であることを示している。シーズン1最終話、アレックスはブラッドリーと共に、そのとき出来る最大限の善を為す。「恐怖、沈黙、疑心暗鬼、痛みがはびこる文化」が番組内に浸透していたこと、さらに自分が「その文化の犠牲になった女性たちを見捨てた」と認めるのだ。なぜなら「私は成功していたから」。

 アメリカ合衆国に住む女性の多くがフェミニストではないということに、わたしは驚かない。フェミニストであるためには、自分たちが平等であり、同じ権利を持つと信じなければならない。だが、自分が属している家族やコミュニティや教会や州がそれに同意しない場合には、日常生活で居心地が悪くなり、危険にもなる。一一秒ごとに女性が殴られるこの国で、しかも一〇代から四〇代までの女性に暴力を与える加害者のトップが現在や過去のパートナーであるこの国では、多くの女性にとって、自分が平等で同じ権利を持つと考えないほうが安全なのだ。そして、フェミニズムが恒久的に歪められ悪者扱いされている国では、男女が平等で同権だという信念は普遍的なものではない。(レベッカ・ソルニット著『それを,真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』より抜粋)

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 本作が切り込むのは性暴力を黙殺する社会構造、それからもうひとつ、「レイプ」の定義だ。
 性暴力被害を告発されたミッチは、「合意の上だったんだ」「俺は強引に犯したりしない」「ワインスタインとは違う」といった言葉で必死に否定する。ミッチにとっての「レイプ」は、暴力や恫喝や薬物などで相手の身体的自由を奪ってセックスに持ち込む行為のみを指しているのかもしれない。ミッチのように圧倒的な権力を持つ男性がじりじりと距離を詰めてくること、日常会話のあいまに性的な「ジョーク」を差しこまれること、密室にふたりきりになることが、女性にとってどれほどの暴力性を帯びるのか想像できないのだ。レイプをレイプとして認識しない加害者については、映画『最後の決闘裁判』(2021年)で緻密に描かれたことも記憶に新しい。

youtu.be 権力者を手厚く保護する不健全な組織風土はもちろん、権力者を保護することで周囲が利益を得る(あるい保護しなければ不利益を被る)力関係も打ち壊さないかぎり、性暴力は繰りかえされるだろう。果たしてUBAは変われるのか。変わるためになにを取り入れ、なにを切り捨てるべきか。UBAは社会の縮図だ。『ザ・モーニングショー』で起きていることは、私たちの暮らしでも起きている。

それは、「いたわり」のレッスン/僕はメイクしてみることにした①

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著者 糸井のぞ
原案 鎌塚亮

 主人公の前田一朗は38歳男性、お菓子メーカーに勤務している。「顔が疲れてますよぉ」と会社で指摘されても特に気にせず、いくぶん投げやり気味な生活を送っていたが、ある朝ふいに顔色の悪さや肌荒れを自覚する。この変化は単なる加齢の影響ではなく、「こうなるまでなーんもせずに放っておいた」自分自身の問題だと思い知るが、さりとてどうやって改善すればよいのかわからない。
 そんな中、偶然ドラッグストアでスキンケア用品の広告が目に入る。《あなたのお肌、いたわってますか?》というコピーに惹かれた一朗は、これまで縁のなかった化粧品やスキンケア用品売り場におそるおそる踏み込み……

 

 頑なに張り付いた「男らしさ」というステッカーを知の爪で剥がそう。ステッカーの下にいる男性は無防備で傷つきやすい。思いやりの心さえある。男性性は性役割の変化といった汚染物質による脅威のせいで常に「危機にある」───というのはニュースのクリシェだ。私は、男性性は多くの点で社会に有害(トクシック)だと考えているので、男性性が「危機にある」なんてセリフは、公民権運動の時代のアメリカではレイシズムが「危機にあった」と言っているようなものだ。男性性は変わらなくてはならない。変わりたくないという人がいるとすれば、申し分ない仕事と申し分ない家庭のある、ミドルクラスの白人男性である。現状の男性性は彼らに都合がいいのだ。では、貧困や機能不全家族から抜け出すには犯罪者になるしかないうえにそれを男らしいと思っている十代にとっては? パートナーも友人もおらず、しまいには自殺を選んでしまう孤独な男性にとっては? 男らしさが産む問題を人に押しつける鼻息の荒い男の場合では? 我々すべての男性は、澄んだ目で自分をよく見つめ、どんな男性ならすべての人のために世界を今より良い場所にできるか考えないといけない。

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 「有害な男らしさ」から脱却するにはどうすればよいか。自分を愛すること、弱さをさらけだすこと、肯定することをどう学ぶか。ネットフリックスで配信中のドラマ『セックス・エデュケーション』(2019年~)の最新シーズンでは、「有害な男らしさ」のただなかにいた男子高校生のアダム(コナー・スウィンデルズ)とその父マイケル(アリスター・ペトリ)が、それぞれ愛犬の競技会向けトレーニングと料理をいたわりのよすがにして変化する姿が印象深かった。
 VOCEで連載中(追記:現在は連載終了。2022年2月10日単行本発売)の本作においては、スキンケアとメイクが前田一朗の「いたわり」である。スキンケアについて「そういうことに時間かけるのは男として恥ずかしいって思ってた」と自らを省みる一朗が、化粧水や乳液による手入れを習慣化させ、洗顔のためのターバンを買い、デパートコスメに淡い憧れを抱き、ベースメイクにチャレンジする。その姿は、スキンケア及びメイク初心者に向けた等身大のガイドであると同時に、「有害な男らしさ」の呪縛を少しずつ振りほどく過程でもある。
 おもしろいのは、化粧水の《さっぱりタイプ》と《しっとりタイプ》の違いに悩む一朗が、そもそもこれまで自分の肌質について考えたことがなかったと気づき、「38年生きてきたのに俺自身のことをちっとも知らない」と思いがけず内省的になるところだ(第1話)。内面外面問わず自分のケアに取り組もうとするとき、なによりもまず自分自身に対する理解の深さが求められることを、一朗の気づきはさりげなく提示する。
 なにを補いたいのか、なにを優先したいのか、どういう顔になりたいのか。それを知るには繊細な言語化が必須だ。自分をケアすることは、自分という人間の解像度を上げることに他ならない。ていねいに洗顔すれば、これまでより多少は時間がかかるが、「自分を大事にしてる感じは悪くない」と一朗はさわやかな満足感を得るのである(第2話)。
 ベースメイクの選択肢の多さと複雑さを前に「正直ここまでしなくていいかなって」とくじける一朗を、メンターポジションのタマが「どこまでやりたいか…そこに気づくのすっごい大事だと思うんですよね」と肯定するシーンもみどころだ(第4話)。手間をかけるほどよいわけでも、高価なアイテムを使うほどよいというわけでもない。目標も環境も人それぞれなのだから。「実際やりながら足したり引いたりして近づけていくしかないんですよねえ」というタマの言葉は、メイクの話であり、ひいては自己実現の話だ。

 一朗の同年代の男性キャラクターとして登場する長谷部は、これまで一朗の変化を好意的に受けとめ、励ましてすらいたが、実は彼も「有害な男らしさ」に縛られていることが第7話で明かされる。
 一朗がタマを「師匠」だと説明しても、すぐさま「その子のこと狙ってるんだろ?」と品のない表現で恋愛や性愛の対象に据えなおすセリフには、女性を尊敬や友情を育む相手ではなく「手に入れるもの」としてまなざす意識が滲む。彼自身(一朗がスキンケアに取り組むよりずっと以前から)身だしなみに気をつかうタイプでありながら、一朗のメイクやスキンケアは「男の身だしなみ」ではないと線をひく頑なな態度や、家庭内での孤立にも注目したい。
 一朗がメイクやスキンケアに見出したような「いたわり」が、長谷部にもきっと必要なのだ。感情を言葉にすること、「男ならばこうあらねば」という圧に屈しないこと、自分が好ましく感じるものに手をのばすこと……。
 近くて遠いふたりの男性が、どうやって『「男らしさ」というステッカーを知の爪で剥が』し、どんな「いたわり」にたどり着くのだろう。メイクにレッスンが不可欠なように、自分を大切にするにもレッスンが要る。「こうなるまでなーんもせずに放っておいた」一朗の肌が日々のケアで美しくなったのだ。「有害な男らしさ」の檻を壊すのに、遅すぎるということはきっとない。

自分を救う男たち/ナビレラ -それでも蝶は舞う-

 70歳のシム・ドクチュルは、貧しいながらも地道に働いて家族を養ってきた元郵便局員である。子どもたちはそれぞれ独立し、妻との仲は良好だ。平穏な日々ではあるが、老いは容赦なく襲いかかる。ひとり、またひとりと同年代の友人が亡くなってゆく中、ドクチュルは自身に残された年月について思いを馳せる。
 ある日ドクチュルは、23歳のバレエダンサー、イ・チェロクが練習しているところに遭遇する。かつて幼少期に憧れたものの、父親に反対されて習うことが叶わなかったバレエに対する情熱が、古希を迎えて再び燃えあがるのである。

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ナビレラ -それでも蝶は舞う-
2021年 韓国

 年齢も境遇も異なるドクチュルとチェロクだが、父親の支配や暴力の影響により、人生の選択の幅を狭めたり望む道を諦めたりせざるを得なかったという共通の体験がある。幼少期のドクチュルは、「男がおしろいを塗って踊ると言うのか。一生貧乏暮らしを? 私が誰のために重労働をしてると?」と父親に説き伏せられてバレエを諦めた。一方のチェロクは、高校サッカー部監督の父による部員への体罰が問題になって部が廃部になり、同級生たちとの関係も悪くなってしまった。
 ドクチュルは「家長」的な振る舞いをしない。誰に対しても平等に、ユーモアをもって接する。ドクチュルが父に言われた「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」的な恩を着せる言葉を、彼が自身の家族に投げかけることはない。
 また、息子より遥かに若いチェロクに素直に頭を下げたり教えを乞うたりするだけでなく、マネージャーとしてもいきいきと活躍する。チェロクの体調をチェックし、モーニングコールをし、ときには台所に立つ。『愛の不時着』(2019~2020)で、リ・ジョンヒョク(ヒョンビン)がユン・セリ(ソン・イェジン)にこまやかに食事の世話をするシーンが印象的だったが、ドクチュルもまた、他者をケアする男性キャラクターである。

 ドクチュルがバレエを習いはじめたことに、家族は猛反対する。妻のヘナムは狼狽し、「私と登山や映画を楽しめばいいでしょ。こんな物を着て踊る必要ある? きれいに年を重ねようとせず、なぜみっともないマネを?」とドクチュルを詰る。ついには長男ソンサンの呼びかけにより、ドクチュルがバレエを習うことの是非について家族会議が開かれてしまうのだ。
 長男の妻エランや長女の夫ヨンイルなど、賛成派がいなくもないのだが、反対派の語気は荒い。彼らは「母さんと登山でもすればいいでしょ」「この年でバレエをしてケガでもしたら苦労するのは母さんよ」などとあれこれ反対の理由を並べるが、要するに、「高齢男性が今さらバレエを習うのはみっともないからやめろ」という見解なのだ。彼らにとってバレエは「男らしさ」の対極にある上、老いてから初心者として習いはじめることがまるで想像できない。そこには強烈な「恥ずかしさ」と「見苦しさ」がつきまとう。バレエは男らしくない、老後の趣味にふさわしくない、正しい「男らしさ」に従うべきだとドクチュルに強いるのである。
 当のドクチュルは、レッスン中の自身の姿が、若くたくましいチェロクのように完璧ではないだろうと客観視している。失敗したり恥をかいたりするかもしれないと、じゅうぶんに予想している。しかしそんなことはどうでもいいのだ。チェロクのように踊れたらすばらしいだろうが、ドクチュルの本質的なゴールはそこにない。

 私が年齢と経験を重ねて学んだのは、戸惑ったり恥をかいても死なないこと、間違ったり失敗したり拒まれても大丈夫だということ、弱さを見せても良いということである。実際のところ、これらは信じられないくらい役に立つし、弱さや恥を話すと相手に親しみをもってもらえる。「わかりません。あなたの言う通りです。あなたが正しいんです」と書いてある席に座るのはとても快適だ。一部の人たちは些細なことでも自分を弁護するが、似たように、弱さや恥を晒すことは生死に関わると思っている人もいるだろう。へまをすると自分が消滅してしまうと思っている人もいるだろう。(グレイソン・ペリー著『男らしさの終焉』より)

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 ドクチュルと正反対の人物として登場するのが、長男のソンサンである。「バレエなんてありえないだろ」と父親の行動に呆れかえるソンサンは、本作で最も家父長主義的人物として描かれる。韓国の熾烈な競争社会のなかですり減らされ、昇進に過敏になり、妻や娘の行動に口を出す。人の失敗が許せないし、自分の失敗も許せない。「男らしさ」や「一家の大黒柱」の規範に自身を閉じこめ、そこから逸脱することを良しとしない。
 ソンサンは、就活で不採用になったウノを厳しく叱り、「高みを目指し競争社会を生き抜くためだ」と言う。対照的にドクチュルは、「順風満帆な人生を送れたらもちろんいいだろう。だがな、つまずいたって構わん。なんてことない」と励ますのだ。

 また、「有害な男らしさ」の害は他者に及ぶだけではありません。過労死事件を扱うことの多い知り合いの弁護士が、「過労死というのは男性性の病理だ」ということを言っていました。もちろん、近年では女性でも過労死・過労自殺に追い込まれる例は少なくありません(電通の女性社員やNHKの女性局員が亡くなった事件は記憶に新しいところです)。でも、傾向としてはやはり圧倒的に男性が多数です。
 それは、やはり「男らしさ」の縛りが彼らを追い込むからなのでしょう。肉体的・精神的に限界なのに「つらい」「辞めたい」と言い出せない。責任ある立場につくと、自分が頑張ってなんとかしなくてはと思い、誰かの助けを借りるという発想が出てこない。「男に生まれた以上」一家の大黒柱として妻子を養う責任を感じ、相談したり弱音を打ち明けたりしづらい……。おそらく男性には、多かれ少なかれ身に覚えがあるのではないでしょうか。(太田啓子著『これからの男の子たちへ』より)

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 ソンサンの妻エランは、社員のカウンセリングを担当する社内相談室で働き始める。だが過去の相談記録は真っ白で、誰もこの部署を利用していないと気づく。
 エランは対策として、相談室の利用を促す貼り紙を社内に貼って工夫するのだが、ソンサンはそれを「貼り紙なんて効果はない。カウンセリングなんて無駄さ」と軽んじる。「相談室が暇な理由がある。行けば異常があると思われる」とまで言いきる彼にとって、強さとは、弱さを見せないことに他ならない。
 そんなソンサンが仕事で大きなトラブルを抱え、理不尽に責任を負わされて退職することになる。慎重に積み上げてきたキャリアが崩れ、挫折を味わう。ソンサンは少しずつ内面を語るようになり、子どものころに欲しかったもの、耐え難かったこと、努力したこと、諦めたことを言語化してゆく。「平気なフリしてるあなたが不憫でならない」というエランの投げかけは、「男らしさ」に長年縛られてきたソンサンの苦しさを的確に示すのである。

清田 「感情の言語化」ってすごく大事な概念だと思うんですが、そのことすら男性たちはピンとこないかもしれない……と感じることがあります。「言語化していない」という意識すらないような気もします。
太田 そうか。言語化できなくて困った、という経験が乏しければ、言語化していない/できていないということ自体に気づくこともあまりないのかもしれないですね。
清田 (略)たとえば、ほんとうは恐怖によって足が震えているはずなのに「これは武者震いだからびびってない」と思い込み、心の底にある恐怖を拾えない、とか……。(略)(太田啓子著『これからの男の子たちへ』より) 

 本作の登場人物たちは、それぞれが「受容」を経験する。チェロクは父との確執を、ドクチュルは老いを、ソンサンは競争社会からの離脱を受け入れる。
 よけいな見栄や意地や義務感を脱ぎ捨て、呪縛から自由になるのに年齢は関係ない。自分で自分を救うことはいつだって可能で、そのためのチャンスはいたるところにある。全話を通してそういうメッセージが込められているからこそ、チェロクに向かって「バレエを習いたいんです」とまっすぐに伝える70歳のドクチュルのまなざしには説得力があり、観る者の胸を打つのである。

交差するわたしたち/あのこは貴族

 東京生まれ東京育ち、裕福な開業医の親と松濤で暮らす27歳の榛原華子(門脇麦)は、結婚を考えていた恋人にフラれてしまう。その後の縁談や紹介などはどれもうまくいかない。結婚こそ幸福だと教育され、それを信じてきた華子は焦るが、義兄の友人・青木幸一郎(高良健吾)に出会って恋に落ちる。
 交際は順調に進み、半年ほどでプロポーズされる。しかしその晩、幸一郎の携帯が、時岡美紀(水原希子)という人物からのメッセージを受信したことに華子は気づく。美紀は幸一郎の同級生で、富山から上京して慶應義塾大学に入学したものの、実家の金銭的な事情で学費を払い続けることができず、中退した女性だった。

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 人が違えば、当然ながら送ってきた人生が違う。見たものが、見なかったものが違う。経験が違う。
『あのこは貴族』は、東京で暮らす二十代後半の女性ふたりを対比しながら、両者の相違点をこまやかに浮かび上がらせてゆく。華子がバーキンをさらりと持つ一方、美紀はエルエルビーンのトートバッグを愛用する。美紀がホテルのラウンジでカトラリーを落とすと、華子は最小限のしぐさで店側に合図を送る。あまり好きではないデザインのマグカップを、「ダサいんだけどさ、手に馴染んで飲みやすいんだよね。全然気に入ってないんだけど、なぜか割れずに生き残っていくし」という理由で使い続ける経験が、美紀にはあって華子にはない。
 彼女たちの装いや身のこなしや物事に対する反応のひとつひとつに、これまで送ってきた人生と、培ってきた経済感覚の違いが滲む。どんな言葉よりも雄弁に。
 華子の友人・逸子(石橋静河)の引き合わせによって、華子と美紀は出会う。双方が複雑な視線を向け合うが、ふたりの仲を絶対に険悪にしないのが、この映画のもっとも大切なところだ。その思いは、浮気者の父親と、金銭的な事情や体面を気にして離婚を選ばない母親を持つ逸子のセリフにも込められている。
「日本って、女を分断する価値観が普通にまかり通ってるじゃないですか。おばさんや独身女性を笑ったり、ママ友怖いって煽ったり、女同士で対立するように仕向けられるでしょう? 私、そういうの嫌なんです。本当は女同士で叩き合ったり、自尊心をすり減らす必要ないじゃないですか」

  本作を観ていると、しみじみと思い知る。「東京に住む二十代の女性」という共通点だけで華子と美紀をひとつのカテゴリーに括ることが、いかに乱暴であるかを。性別が同じでも、年代が同じでも、暮らす都市が同じでも、違って当然のことが星の数ほどあることを。《華子&美紀》よりは似た経済環境下で育ったであろう《華子&逸子》でさえ、結婚や職業に対する価値観は一致しない。
 女性と女性のあいだに共通性を見出す喜びや、それによって得られる心強さはたしかにある。一方で、女性全体を安易に「同じ集団」として捉えることは多くの危険をはらむ。女性は──すべての性は──ひとりひとり異なる人生を送っている。首都圏出身と地方出身の差、実家の経済状況の差、教育を受ける機会の差、雇用形態の差……挙げればキリがないだろう。
 しかし、ひとりひとりの人生は違いつつも、それらは孤島と孤島のように遠く海を隔てているわけではない。そう信じたい。ある女性の苦悩の一部は、別の女性の苦悩や、あるいはかつて苦悩しながら乗り越えてきたことの一部にそっと重なったり、繋がったり、交差したりしている。その交差点で女性たちは手を振り合ったり、励まし合ったり、救ったり救われたりすることができる。そういう瞬間を、希望と呼びたくなるのである。

 プランターと土を用意して、「何か育ててみようかなって。やったことないけど。トマトとか、今の時期に植えるといいみたいだし」と語る華子は対照的に、美紀が暮らす部屋には、すでに至るところに植物が置いてある。狭いながらもすべて美紀の選択によって集められた品で満ちた生活空間の描写や、起業の話題などを織り交ぜながら、美紀が華子とはまったく別の経験値を豊かに積み重ねていることを窺わせる。
 華子との対比で「持たざる者」として描かれがちな美紀だが、彼女の人生へのライトの当て方がとても優しい。両者間に大きな経済的格差はあれど、美紀が裕福な華子に嫉妬したり恨んだり嫌ったりするような単純な話の運びにはならない。本作は、徹底して美紀と華子を対立させない。炙り出されるのは社会構造のいびつさだ。
「うちの地元だって、街から出ないと親の人生トレースしてる人ばっかりだよ」という美紀のセリフは、華子にも幸一郎にも刺さる。「街」というのは、単に居住区だけを指すのではない。東京生まれ東京育ちでありつつ、美紀の家のベランダから見えた東京タワーがひどく新鮮だったように、同じ東京で、違う生き方をすることはできる。
 そういう可能性の幅を華子に提示したのが他ならぬ美紀であることと、悔しい思いを山ほどしながらも美紀が新しい仕事を懸命に切り拓いていることに、大きな喜びを感じるのである。

ここから小さな革命を/作りたい女と食べたい女

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作りたい女と食べたい女1(2021年)
著者:ゆざきさかおみ

 料理好きの野本さんは、日々の食卓の写真をSNSにアップするなどして楽しんでいるが、本当はもっとボリュームとインパクトがあるものを作りたい。とは言え自身は少食で、さらに一人暮らしであるため、そういった料理に着手するきっかけがない。
 そんな折、同じマンションの隣の隣の部屋に住む春日さんと出会う。野本さんは、自分ひとりでは食べきれない量の料理をつくって春日さんに振る舞ってみたいという淡い期待を抱き……


《料理=女性が男性や子どものためにするもの》というジェンダーロールの押しつけにうんざりする野本さんや(1話)、定食のごはんの量を確認なく少なめにされる春日さん(2話)、食費の話をしながら交わされる「そもそも女の給料がもっと上がれば…」「同じ非正規でも女のほうがより低いです」という給料格差を嘆く会話(3話)など、食をメインテーマに据えつつ、性差別の問題を積極的に取り上げ続けている作品である。
  男性中心・異性愛中心社会で感じる悔しさや違和感を、野本さんと春日さんは表明し続ける。性差別に即座に反論するのは、できたら理想ではあるがなかなか実行できないことも多いし、今日の抗いが明日の社会をただちに変えるわけではないかもしれない。しかし、野本さんと春日さんが地道にノーを示し、こんな思いをして辛かった、こんな理不尽な目に遭って嫌だったと打ち明ける姿は、現実の読者を確実に力づける。
 わたしたちは不平等を良しとしないし、わたしたちはだれにも消費されたくないのだと、「つくたべ」の世界は訴える。その小さな革命が読む側の内面に生み出す波紋が快いのである。

  本作の食事シーンは非常に工夫されている。野本さんと春日さんは、1回の食事で摂る量も違えば、スプーンに盛るひとくちの量も違う。食べ方も違うし、添えられるオノマトペも違う(これは漫画ならではのおもしろさだ)。違う人間だから当然と言えば当然だが、その“当然”がすみずみまで丁寧に行き渡っている。
 また、キャラクター同士の感情のやりとりや、現時点での関係性を無視して食事シーンを過度にエロティックに演出する手法から距離を置いている点にも注目したい。一方的な性的視線に晒されることなく食事を楽しむ女性キャラクターの姿は新鮮に胸をうち、逆に「こんなに大切なことが“新鮮”でいいのだろうか?」と思わず考えこんでしまう。

 野本さんと春日さんは、単純に「作るのが好き」「食べるのが好き」という組み合わせの良さだけで親しくなっているわけではない。彼女たちはどちらも、相手に対する観察と配慮を怠らない。
 春日さんは、生理で体調不良の野本さんに「春日さんみたいに強くならなきゃね」と言われ、「そのままでいいですよ/同じ女なんていないんだから」と返す(4話)。野本さんは、「春日さんが普段どこで服買ってるかとかも/そのうち話せるようになるのかな」と関係の進展を控えめに望みつつ、一方で「身長のこと気にしてるかもしれないから不用意には聞かない…」と自分を律している(7話)。社会の「女性全体」に関わる諸問題を描きつつ、同時に「女性ひとりひとり」の細かな差異を掬いあげる誠実さが、独特の読み心地の良さに繋がっている。

ごく身近な、人道的危機/パブリック 図書館の奇跡

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パブリック 図書館の奇跡(The Public)
2018年 アメリ
エミリオ・エステベス

 スチュアート(エミリオ・エステベス)は、オハイオ州シンシナティ公共図書館に勤める図書館員だ。同館は、近隣のホームレスたちが開館と同時に訪れ、トイレで身支度を整えたり暖をとったりして一日を過ごすのが日常である。
 ある日、スチュアートと警備員のラミレス(ジェイコブ・バスガス)が、体臭のきつさを理由にアイクというホームレスを退館させたことが問題になる。職員や他の利用者から苦情がきたゆえの対応だったが、体臭を理由に特定の利用者を追放するのは権利の侵害であり、差別であるというのだ。
 そんな折、記録的な大寒波が到来する。市が設置したホームレスのためのシェルターは数が足りない。凍死を免れるべく、大勢のホームレスが図書館を緊急シェルターとして頼ろうとするが……


 現在は仕事を持ち、古くも清潔な家で慎ましく暮らしているスチュアートだが、アルコール依存症に苦しんで路上生活を送った過去がある。
 彼はそのことを、図書館に共に立てこもるホームレスたちに積極的に語らない。同じ経験があるからあなたたちの辛さがわかるよ、というアプローチを選ばない。スチュアートは、「かつて同じ経験をした者として」ホームレスたちを大寒波から守るのではなく、公共施設の職員として、ひいては社会の一員として守るのである。
 ひとつの問題に対し、「同じ経験があるから」とか、「自分や家族に起こったこととして想像したら辛いから」という考え方で渦中の人物を支えるのが、つねに正解であるとは限らない。たとえば、痴漢や性加害について、「自分の子や配偶者が被害に遭う場面を想像したら辛いから」防止を訴える、では不十分なのだ。被害者が自分にとって身近な人間でも、赤の他人でも、人権は等しく守られるべきなのだから。
 かつてホームレスだったスチュアートは、その当事者性を前面に押し出して警察や世論に訴えることはない。ホームレスだったからこそ知っていることは、もちろんたくさんあるだろう。路上の冷たさや、そこで眠る厳しさと心細さ。けれど、「当事者だったから」、あるいは「当事者の気持ちを想像したら辛いから」だけでは、この映画の主題に沿わないのだ。報道番組のインタビュアーに図書館内の現状を説明する際、「ごく身近な人道的危機」と返したスチュアートの言葉の選び方は、まったくもって的確なのである。

 図書館内に立てこもるホームレスたちのなかに、女性のホームレスが(おそらくはひとりも)いないことが気になった。冒頭、アシーナという女性のホームレスが登場したが、スチュアートやラミレスとの会話内容から察するに、彼女もほとんど毎日のように図書館を利用していたはずだ。アシーナは、大寒波の夜をどうやって乗り越えたのだろう?
 さまざまな立場や経歴のキャラクターたちを複雑に交差させ、公共という場所とその役割を問いかける堅実な脚本であっただけに、「女性のホームレス」像がすっぽりと抜け落ちていたことは残念でならない。

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センチメンタルにつぶされない/2分の1の魔法

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2分の1の魔法(Onward
2020年 アメリ
ダン・スキャンロン

 かつては魔法が栄えていたが、習得の困難さや科学技術の進歩などにより衰退した世界。エルフの少年イアンは、兄バーリーと母ローレルの3人で暮らしている。
 イアンの16歳の誕生日、バーリーとイアンは、イアンが生まれる前に死んだ父ウィルデンが遺したものを母から受け取る。それは魔法の杖と、死者を24時間だけ復活させる呪文であった。さっそく実践するも魔法は失敗し、ウィルデンは下半身のみ蘇る。24時間以内に父を完全な姿で蘇らせるべく、イアンとバーリーは魔法に必要な「不死鳥の石」を探す旅に出る。


 若くして死んだ父への思いと、衰退した魔法文化への強い憧れを抱く兄のキャラクターが混ざり合い、序盤は“失われたものに対する郷愁”が前面に出る。引っ込み思案なイアンは、学校生活での馴染めなさや自信のなさの解決の糸口をすべて父に求めている節がある。バーリーはバーリーで、魔法の研究に打ち込む熱心さはあれど、現代における魔法は古臭く非実用的な趣味としてしか見なされないため、母に「将来のことを考えて」と叱られている。
 ものすごく失礼な言い方を承知ですると、本作は、「きっとこういう話なんだろうな」と結末を予想できそうな雰囲気があった。自分にとってはそうだった。
 だからやや気を抜いて観始めてしまったのだが、出発シーンからほどなくして、だらけた姿勢をピリッと正されることになった。魔法でコルト巡査に化けたイアンが、兄に対する感情をはからずも吐露してしまうシーンだ。
「亡き父と子の関係をめぐるロードムービー」という構図で始まった本作は、次第に様相を変え、上記シーンをターニングポイントに「亡き父と子の関係」から「兄と弟の関係」へシフトする。言い換えれば「生きている者同士の物語」だ。亡き父に対する愛や感傷を共有するだけでは乗り越えられない厳しさがある。
 これは、父を復活させて、限られた時間の中で新しい思い出を作るための旅ではない。死者を悼むことが今を生きることを侵食しないよう、両者を両立させるための旅なのだ。イアンもバーリーも生きている。これからも生きてゆく。リアルタイムで揺れ動く感情があり、自尊心があり、過去を克服するチャンスがある。
 本作は、誰しも身に覚えがあるであろう「思い出の中で死者が美化される」現象に正面から切り込んでいる。
 父はダンスが上手くないし、靴下は奇妙な色だし、魔法使いネームもダサかった。けれどそういうことをひとつひとつ確かめるたび、父に対する愛情や親しみに、これまでにない実感が伴ってゆく。父がおしゃれで完璧でセンスが良いから好きなのではなく、父が父だから好きなのだ。

 それにしても邦題が巧みだ。「2分の1」は、文字通り半分だけ復活した父ウィルデンの姿そのものであり、兄弟という単位でバーリーとイアンを捉えたときに、それぞれの役どころや見せ場や背負う物語に対して係るフレーズでもある。
 そして、父に会えるのも1人だけなのだ。本作ラスト、イアンががれきの隙間から父の姿を見るシーンはほろ苦いが、父に会う一度きりのチャンスを兄に譲った心境には納得できるし、この苦さを中途半端に和らげようとしない容赦のなさこそが良い。10代か、あるいはもっと幼い年齢層が観ることもじゅうぶんに想定しているであろう映画に、この厳しくも優しいラストシーンがあることは、映画から年若い観客への信頼のようにも思える。