灯台守のパン

この先は灯台守の眠る部屋 無口な者がパンを届けよ

自分を救う男たち/ナビレラ -それでも蝶は舞う-

 70歳のシム・ドクチュルは、貧しいながらも地道に働いて家族を養ってきた元郵便局員である。子どもたちはそれぞれ独立し、妻との仲は良好だ。平穏な日々ではあるが、老いは容赦なく襲いかかる。ひとり、またひとりと同年代の友人が亡くなってゆく中、ドクチュルは自身に残された年月について思いを馳せる。
 ある日ドクチュルは、23歳のバレエダンサー、イ・チェロクが練習しているところに遭遇する。かつて幼少期に憧れたものの、父親に反対されて習うことが叶わなかったバレエに対する情熱が、古希を迎えて再び燃えあがるのである。

www.netflix.com

ナビレラ -それでも蝶は舞う-
2021年 韓国

 年齢も境遇も異なるドクチュルとチェロクだが、父親の支配や暴力の影響により、人生の選択の幅を狭めたり望む道を諦めたりせざるを得なかったという共通の体験がある。幼少期のドクチュルは、「男がおしろいを塗って踊ると言うのか。一生貧乏暮らしを? 私が誰のために重労働をしてると?」と父親に説き伏せられてバレエを諦めた。一方のチェロクは、高校サッカー部監督の父による部員への体罰が問題になって部が廃部になり、同級生たちとの関係も悪くなってしまった。
 ドクチュルは「家長」的な振る舞いをしない。誰に対しても平等に、ユーモアをもって接する。ドクチュルが父に言われた「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」的な恩を着せる言葉を、彼が自身の家族に投げかけることはない。
 また、息子より遥かに若いチェロクに素直に頭を下げたり教えを乞うたりするだけでなく、マネージャーとしてもいきいきと活躍する。チェロクの体調をチェックし、モーニングコールをし、ときには台所に立つ。『愛の不時着』(2019~2020)で、リ・ジョンヒョク(ヒョンビン)がユン・セリ(ソン・イェジン)にこまやかに食事の世話をするシーンが印象的だったが、ドクチュルもまた、他者をケアする男性キャラクターである。

 ドクチュルがバレエを習いはじめたことに、家族は猛反対する。妻のヘナムは狼狽し、「私と登山や映画を楽しめばいいでしょ。こんな物を着て踊る必要ある? きれいに年を重ねようとせず、なぜみっともないマネを?」とドクチュルを詰る。ついには長男ソンサンの呼びかけにより、ドクチュルがバレエを習うことの是非について家族会議が開かれてしまうのだ。
 長男の妻エランや長女の夫ヨンイルなど、賛成派がいなくもないのだが、反対派の語気は荒い。彼らは「母さんと登山でもすればいいでしょ」「この年でバレエをしてケガでもしたら苦労するのは母さんよ」などとあれこれ反対の理由を並べるが、要するに、「高齢男性が今さらバレエを習うのはみっともないからやめろ」という見解なのだ。彼らにとってバレエは「男らしさ」の対極にある上、老いてから初心者として習いはじめることがまるで想像できない。そこには強烈な「恥ずかしさ」と「見苦しさ」がつきまとう。バレエは男らしくない、老後の趣味にふさわしくない、正しい「男らしさ」に従うべきだとドクチュルに強いるのである。
 当のドクチュルは、レッスン中の自身の姿が、若くたくましいチェロクのように完璧ではないだろうと客観視している。失敗したり恥をかいたりするかもしれないと、じゅうぶんに予想している。しかしそんなことはどうでもいいのだ。チェロクのように踊れたらすばらしいだろうが、ドクチュルの本質的なゴールはそこにない。

 私が年齢と経験を重ねて学んだのは、戸惑ったり恥をかいても死なないこと、間違ったり失敗したり拒まれても大丈夫だということ、弱さを見せても良いということである。実際のところ、これらは信じられないくらい役に立つし、弱さや恥を話すと相手に親しみをもってもらえる。「わかりません。あなたの言う通りです。あなたが正しいんです」と書いてある席に座るのはとても快適だ。一部の人たちは些細なことでも自分を弁護するが、似たように、弱さや恥を晒すことは生死に関わると思っている人もいるだろう。へまをすると自分が消滅してしまうと思っている人もいるだろう。(グレイソン・ペリー著『男らしさの終焉』より)

filmart.co.jp

 ドクチュルと正反対の人物として登場するのが、長男のソンサンである。「バレエなんてありえないだろ」と父親の行動に呆れかえるソンサンは、本作で最も家父長主義的人物として描かれる。韓国の熾烈な競争社会のなかですり減らされ、昇進に過敏になり、妻や娘の行動に口を出す。人の失敗が許せないし、自分の失敗も許せない。「男らしさ」や「一家の大黒柱」の規範に自身を閉じこめ、そこから逸脱することを良しとしない。
 ソンサンは、就活で不採用になったウノを厳しく叱り、「高みを目指し競争社会を生き抜くためだ」と言う。対照的にドクチュルは、「順風満帆な人生を送れたらもちろんいいだろう。だがな、つまずいたって構わん。なんてことない」と励ますのだ。

 また、「有害な男らしさ」の害は他者に及ぶだけではありません。過労死事件を扱うことの多い知り合いの弁護士が、「過労死というのは男性性の病理だ」ということを言っていました。もちろん、近年では女性でも過労死・過労自殺に追い込まれる例は少なくありません(電通の女性社員やNHKの女性局員が亡くなった事件は記憶に新しいところです)。でも、傾向としてはやはり圧倒的に男性が多数です。
 それは、やはり「男らしさ」の縛りが彼らを追い込むからなのでしょう。肉体的・精神的に限界なのに「つらい」「辞めたい」と言い出せない。責任ある立場につくと、自分が頑張ってなんとかしなくてはと思い、誰かの助けを借りるという発想が出てこない。「男に生まれた以上」一家の大黒柱として妻子を養う責任を感じ、相談したり弱音を打ち明けたりしづらい……。おそらく男性には、多かれ少なかれ身に覚えがあるのではないでしょうか。(太田啓子著『これからの男の子たちへ』より)

www.otsukishoten.co.jp 
 ソンサンの妻エランは、社員のカウンセリングを担当する社内相談室で働き始める。だが過去の相談記録は真っ白で、誰もこの部署を利用していないと気づく。
 エランは対策として、相談室の利用を促す貼り紙を社内に貼って工夫するのだが、ソンサンはそれを「貼り紙なんて効果はない。カウンセリングなんて無駄さ」と軽んじる。「相談室が暇な理由がある。行けば異常があると思われる」とまで言いきる彼にとって、強さとは、弱さを見せないことに他ならない。
 そんなソンサンが仕事で大きなトラブルを抱え、理不尽に責任を負わされて退職することになる。慎重に積み上げてきたキャリアが崩れ、挫折を味わう。ソンサンは少しずつ内面を語るようになり、子どものころに欲しかったもの、耐え難かったこと、努力したこと、諦めたことを言語化してゆく。「平気なフリしてるあなたが不憫でならない」というエランの投げかけは、「男らしさ」に長年縛られてきたソンサンの苦しさを的確に示すのである。

清田 「感情の言語化」ってすごく大事な概念だと思うんですが、そのことすら男性たちはピンとこないかもしれない……と感じることがあります。「言語化していない」という意識すらないような気もします。
太田 そうか。言語化できなくて困った、という経験が乏しければ、言語化していない/できていないということ自体に気づくこともあまりないのかもしれないですね。
清田 (略)たとえば、ほんとうは恐怖によって足が震えているはずなのに「これは武者震いだからびびってない」と思い込み、心の底にある恐怖を拾えない、とか……。(略)(太田啓子著『これからの男の子たちへ』より) 

 本作の登場人物たちは、それぞれが「受容」を経験する。チェロクは父との確執を、ドクチュルは老いを、ソンサンは競争社会からの離脱を受け入れる。
 よけいな見栄や意地や義務感を脱ぎ捨て、呪縛から自由になるのに年齢は関係ない。自分で自分を救うことはいつだって可能で、そのためのチャンスはいたるところにある。全話を通してそういうメッセージが込められているからこそ、チェロクに向かって「バレエを習いたいんです」とまっすぐに伝える70歳のドクチュルのまなざしには説得力があり、観る者の胸を打つのである。