灯台守のパン

この先は灯台守の眠る部屋 無口な者がパンを届けよ

私とあなたが対等であるために/ウ・ヨンウ弁護士は天才肌(ep10)

 主人公 ウ・ヨンウ(パク・ウンビン)は、韓国の大手法律事務所ハンバダの新人弁護士。ソウル大およびソウル大ロースクールを主席で卒業した優秀な人物で、自閉スペクトラム症である。のり巻き店を営む父親とふたりで暮らし、法律とクジラをこよなく愛している。
 エピソード10「手をつなぐのはまた今度」では、軽度の知的障がい者であるシン・ヘヨン(オ・ヘス)に性的暴行を加えた容疑で逮捕されたヤン・ジョンイル(イ・ウォンジョン)の弁護に取り組む。

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 本作は、ヨンウがロースクール同期のチェ・スヨン弁護士(ハ・ユンギョン)や上司のチョン・ミョンソク弁護士(カン・ギヨン)らと働く日々、事務所職員イ・ジュノ(カン・テオ)との恋、自閉スぺクトラム症に対する差別、韓国が抱える社会問題などをこまやかに描く連続ドラマだ。ネットフリックスにて配信中。全16話予定。

障がい者と健常者とのあいだにおける性的同意」というテーマそのものも然ることながら、ジュノがヨンウに好意を打ち明けたエピソード9の直後にこれに取り組むところが凄い。ヨンウとジュノがフェアに恋を深めてゆけるかどうかを揺さぶるように事件は混迷し、キャラクターたちの心理は複雑になってゆく。
 重要なのは、ヘヨンの母親が過干渉である点だ。母親が口をはさんだり叱責したりするせいでヘヨンが委縮し、自分の意見を言えなくなっているのではないかと推察させるシーンがある(母親のややヒステリックな振る舞いについては、個人の性格の話に帰するのではなく、もう少していねいに想像してみたい。障がいのあるヘヨンが傷ついたり騙されたりしないよう必死に努めているのはもちろん、それに加えてたとえば、彼女自身が周囲のサポートを得られず子育てに苦労したゆえ過敏になっているという背景があるかもしれない)。
 ジョンイルとの関係が健全であったかどうかを考えると同時に、母親との関係も慎重に検討するべきだろう。ヘヨンの自己決定権を危うくさせている原因は、きっとひとつではない。

 ヘヨンは、ジョンイルが誠実とは言いがたい人物であることを理解し、その上で彼を愛しているのだとヨンウに主張する。
 ヨンウは彼女にこう応じる。

お分かりのとおり、ヤンさんは遊び人です。悪い男です。
でも、障がい者でも悪い男に恋する自由はあります。
シンさんの経験が愛なのか性的暴行なのか、判断するのはシンさんです。
お母さんと裁判所に決めさせてはいけません。

 今回の事件は、ある側面からは、ヘヨンが「悪い男に恋する自由」を選ぶも、母親の支配から逃れられずにいるケースとして見ることができる。実際、ヨンウたちはその視点からの弁護を試みた。
 しかし、陳述書記載の「(セックスが)イヤと言ったら彼が拗ねた。泣きだした。愛じゃないと言った」という状況は愛を盾に取った脅迫であり、少なくともこの晩、この瞬間において、両者間でまっとうな性的同意が得られていたとは考えにくい。
 ヘヨンはジョンイルを愛していたのかもしれないが、愛していることがセックスに同意したことにはならないし、拒否されたジョンイルは、「セックスはまた今度」という選択肢を彼女に提示することだってできたはずだ。ジュノがヨンウに、「手をつなぐのはまた今度」と伝えたように。

 だれかと真に対等な関係を築くのは容易なことではない。相手が恋人であったり、家族であったり、自分の生活や心理に深く関わる人であればあるほど、自分が対等に扱われることよりその場かぎりの安寧を──あるいは安寧のように見えるものを──優先させてしまうかもしれない。軽度の知的障がいを持つ女性であるヘヨンが、母親や恋人の機嫌を気にして心身をすり減らすことなく、言葉や感情を望まぬかたちで代弁されることなく、自分という存在がすこやかである状態を優先できる社会の実現には、まだいくつもの課題がある。

「だけどほんと、正直さ、考えると怖くならない? 将来、旦那も子どももいなかったら寂しいんじゃないの?」
「その代わり、私がいるはず。たぶんね」
(ミン・ジヒョン著『僕の狂ったフェミ彼女』(2022年、イーストプレス)より)

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「もし」から始まる性差別への問い/ヒヤマケンタロウの妊娠

 50年ほど前から、各地でシスジェンダー男性の妊娠が相次ぐ世界──。
 主人公・桧山健太郎は、都心の広告代理店に勤めている。社内外ともに競争相手の多い業務をそつなくこなし、プライベートでは複数の相手と同時進行で気軽なデートを楽しむ。独身を謳歌し、育児のため仕事を早めに抜ける同僚を「“子煩悩”って言えば聞こえはいいけど、実際重要な仕事には就けないよなぁ」と遠く眺める日々だ。
 そんな桧山だったが、思いがけず妊娠が発覚する。

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2022年 日本
監督 箱田優子、菊地健雄

 現実世界の女性が妊娠・出産において被る性差別や不平等、社会のすみずみにまで根を張る男性特権を、フィクションのシスジェンダー男性キャラクターである桧山健太郎斎藤工)の視点で描くドラマだ。もしシスジェンダー男性が妊娠したら? その“if”を切り口に、誰もが大なり小なり内面化してしまうジェンダーバイアスを丹念にあぶり出す。


 妊娠後の桧山は、つわりをはじめとする体の変化に悩んだり、キャリア形成に不安をおぼえたりする。一方、セックスのタイミング的に母親と推定される亜季(上野樹里)は、「ほんとに私の子なの?」と反射的に疑ってしまったり、中絶同意書を差し出す桧山に「健太郎がもし産みたいって言ってくれたら、私は自分で産まなくても子どもが持てるわけでしょ」と、自分にとってのメリットを説いたりする。桧山が負う身体的・精神的苦しみは、従来のドラマであれば女性キャラクターが負ってきたものだし、亜季のうかつな発言は、往々にして男性キャラクターが発してきたものだ。
 性差を逆転して展開する本作には、観る者の価値観をかき乱すシーンが随所に散りばめられている。だが、妊娠・出産における苦しみや問題提起を、現実世界の女性を代表して桧山が「代弁」することが手放しですばらしいのかというと、決してそうではないだろう。男性が当事者になったとたん革新的であるかのように扱われてしまう危うさには慎重でいたい。だって、これまでの女性たちは、既にさんざん声をあげてきたのだから。
 それを桧山自身が自覚しつつあることは重要なポイントだ。第4話、桧山がSNSでマタニティグッズのデザインについて意見を述べると、あっという間にたくさんの「いいね!」がつく。その様子を見た後輩の田辺が、「当たり前のことを言うだけでバズるんだから、女性の支持を得るって案外簡単だなぁ」とバカにするのだが、桧山は「それだけ女性の声が無視されてきたってことでしょ。男が言うならみんな聞くんだよ」と苦々しく返すのだ。
 このあと続く「へー、人って妊娠するとフェミニストになるんですね」という田辺のせりふには、女性蔑視と男性妊夫蔑視が絡みあっている。男性妊娠にともなって「男らしさ」「女らしさ」が揺さぶられ、妊娠の前後で桧山のアイデンティティが重層的になるところも示唆ぶかい。
 妊娠前は社内ヒエラルキーのトップに君臨していた桧山は、妊娠後、体調の不安定さやそれをごまかそうとするぎこちなさなどからプロジェクトリーダーを外されてしまう。彼にとってはまさしく挫折だが、多忙なポジションから降りてみれば、「誰にでもできる作業」を女性社員が担っていることに気づく。
 妊娠を打ち明けたのちは男性妊夫モデルとして華々しく登場し、「いち会社員で終わるか、それともこの身をさらして自分の価値を上げるか。後者を選んだだけ」と飲み会で饒舌に語る。新バージョンの「スマートな桧山健太郎」像を確立したかのように見える。しかし、かつてデートした相手からは「“お父さん”はギリギリ恋愛対象でも、“お母さん”は無理だから」と突き放され、複雑な思いをかみしめるのだ。
 さらに第5話では男性妊夫への差別や偏見が描かれ、生きづらさを想像させる。が、第6話、桧山と父の栄一(リリー・フランキー)が女性の亜季に対して敬意なく事業を手伝わせようとするシーンも見逃せない。

 桧山は、これまで信じてきた「男らしさ」を一部はく奪されたかのような虚しさを抱えつつ(男性妊夫コミュニティに蔓延するミソジニーはなかなか根深そうだ)、依然として男性特権の上にいる。男性中心・優位社会を生きるシスヘテロ男性というマジョリティ性と、男性妊夫というマイノリティ性。そのはざまで葛藤し、自身を語ることばを探す過程にいるのだ。

 複合差別≒交差性をこの身で、この日常で、自らの言葉で生きるとは、民族差別、性差別、障害者差別、種差別などをぜんぶ同時に考えればいいとか、それらをすべてうまく包摂すればいいだろう、というような話ではありません。それぞれの人間としての生の必然性に従って、ある面では被害者の自分が別の面では加害者になったり、自分の中の根深い差別的な情動に気づいたりして、混乱し、沈黙をも強いられながら、自分の欲望を──内面化し得ない他者性に貫かれて──生成変化させていくことであるのでしょう。
 まっとうであるとは、複合差別状況の中でも、他者と自分に対する繊細な想像力を持ち続けられること、葛藤し続けられることです。戸惑いや葛藤を抱えた男性のままに、社会変革的=性平等的な男性であろうとすること。社会/自分の中に差別と被差別、加害と被害などが交差的に複合し、絡み合っているがゆえに、何らかの失語や沈黙を経験せざるをえないけれども、それでもなお永続的な努力によってまっとうさや社会正義を──個人的なレベルと集団的なレベルのいずれでも──漸進的に目指していく。大切なのはそういうことではないでしょうか。(杉田俊介著『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』集英社新書、2021年)

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女たちよ、感情に心を揺らせ/私ときどきレッサーパンダ

 トロントで暮らす13歳のメイリン・リーは、意欲にあふれ、「365日どんなことも自分で決める」人間であると自負している。が、実際は生活のほぼすべてを過干渉な母親に従って過ごしており、そのことにうっすら気づきつつもある複雑な時期だ。
 メイリンの家はトロントで最も古い寺で、祖先サン・イーを敬っている。サン・イーは学者、詩人、そして動物の守護者であり、特にレッサーパンダに生涯を捧げたため、「赤きパンダは我が一族に幸運をもたらす」として、レッサーパンダが今なお寺のシンボルだ。
 ある朝目を覚ますと、メイリンは巨大なレッサーパンダに変身していて……

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2022年 アメリカ 
監督 ドミー・シー
原題 Turning Red

 よくぞ描いてくれたというシーンが盛りだくさんで、あれもこれも取り上げたいところだが、大きくふたつの切り口で観たい。ひとつは《母親と娘の距離感》、もうひとつは《女性と感情》だ。

過干渉で支配的な母親とどう向き合うか

 英文学・女性学研究者の田嶋陽子氏は、母親による支配に長年苦しめられた。そこから完全に脱却できたのは、なんと自身が46歳のときだったそうだ。

 彼との恋愛があって私自身いろんな体験をしているころ、母が、私の決断に対して、“そんな馬鹿なことを言っていると、世間がうんぬん”みたいなことを言って真っ向から反対したことがありました。そのとき、生まれてはじめて、私は言えたんです。「お母さん、これは私の問題だから、私が決めたことだから、ほうっておいて」って。
 私は、母の“世間がうんぬん”という言い方が虫唾が走るほどきらいでした。母が世間体をもちだして、私をコントロールするのを卑劣だと思っていました。なんで“自分は”と、自分の責任でモノが言えないのか、トラの威を借るキツネじゃないか、と。でも、それまでの私は、母のそのことばに負けてきました。母に遠隔操作されていたわけです。けれども、そのひとことが言えたとき、なんだかそこからフーッと抜けだせたんです。やっと母の呪縛から逃れて、自己決定権を手に入れたのです。(田嶋陽子著『愛という名の支配』新潮社、2019年)

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 本作では、レッサーパンダの姿でシャワーカーテンの向こうに隠れるメイリンが、母親のミンに「出てけ!」(Will you just get out?)と叫ぶ。メイリンにとっておそらく初めての、明確な親への拒絶。言った本人も口を押さえておどろくほどの。田嶋氏の「ほうっておいて」と重なる、大切なターニングポイントだ。
 ミンは愛情ぶかく、面倒見がよい。メイリンが初潮を迎えたと勘違いしたのちの世話焼きっぷりは、少々オーバーでデリカシーに欠けるが献身的ではある。メイリンが好きで、自分が彼女の母親であることが好きだ。けれど他者を愛することと他者を尊重することはイコールではないし、家族という接近しやすい関係のなかで、愛はときに支配そのものと化す。愛を免罪符にした支配・被支配を脱却し、母と娘のあたらしい距離感を探る必要性を本作は提示する。

 家族は「いわずもがな」「以心伝心」ではない。多くは同床異夢、すれ違い、立体交差の関係に満ちている。(信田さよ子著『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』角川新書、2021年)

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「感情的」というレッテルへの抗い

「感情が高ぶると赤きパンダが出る。しかも繰り返すほどに封印が難しくなる」とミンに説明されたメイリンは、母親の教えを忠実に守るふだんの性格に加え、レッサーパンダに変身しないよう細心の注意を払うようになる。
 女性が喜怒哀楽を示すと、論理的でないとか、感情的な人間は信頼できないとか、しばしばそんな烙印を押されがちだ。同じことを言ったり同じ振る舞いをしたとしても、女性でなければ「情熱的」や「一生懸命」程度のソフトさ、あるいはポジティブさでもって歓迎されるところを、女性だとネガティブに評されることは多々ある。

 講演などで集まってくれたかたに、「男らしさ」「女らしさ」から連想されるプラス・イメージとマイナス・イメージのことばをあげてもらうと、だいたいつぎのようなものが並びます。
(中略)
「女らしさ」
☆プラス・イメージ───やさしい、従順、愛嬌、かわいい、おとなしい、素直、忍耐、上品、きれい、華奢、美しい、細かい、清潔、ひかえめ、気配り、明るい、色っぽい、芯が強い、柔らかい、料理、洗濯……
☆マイナス・イメージ───ヒステリー、泣き虫、おしゃべり、感情的、わがまま、浅はか、いじわる、視野が狭い、社会性がない……(田嶋陽子著『愛という名の支配』新潮社、2019年)

 本作において、メイリンが性差別的な文脈に立脚して「感情的になるな」と強いられることはない。あくまでも「レッサーパンダに変身しないため感情的になるな」だ。
 しかし、個人的な好みや心ときめくものや独立心に芽生えかけている13歳の少女の前に「感情的になるな」という壁が立ちはだかるのは、世に蔓延る「“大人の女性”なら感情的になるな」という抑圧の風刺だろう。《女性と感情》の点で観ると、本作は『キャプテン・マーベル』(2019)を想起させる。主人公のキャロル・ダンヴァース(ブリー・ラーソン)は、地球人としての記憶を失いクリー帝国の特殊部隊に所属するが、そこで徹底して感情を抑えることを教え込まれる。束縛されながら戦ってきたキャロルは自身の半生を辿り、感情と能力を解放して、真のアイデンティティを得るのである。
 ライブに行きたい、いい子なのに信用しないのは変だと叫び、「ただの初ライブじゃなくて大人の女になる第一歩よ」と訴えるメイリンは、初潮のような身体的変化とはまた違う意味で、自分の成長のステップは自己決定権を手に入れることにあると悟っている。

生身の人間であること

 本作に登場する女性キャラクターはとてもリアルだ。メイリン、ミリアム、プリヤ、アビーは、それぞれ体型や外見が細かく異なる。ノートに描いたデヴォンとの架空のロマンスや、バスケットボール中の男子生徒に見惚れるシーンなどは、メイリンのなかにある欲や好奇心をユニーク且つダイレクトに描いている。レッサーパンダになると体のにおいが気になるという点も、いわゆる「どうぶつ臭さ」というより、生身の人間ならばあっておかしくない体臭をコミカルに強調したようにも受け取れる。
 そう、生きていれば、多少なりともにおうのだ。生きていれば感情が揺れるし、欲も出る。うそをつくし、めまいがするほど恥ずかしい目に遭ったりする。うれしくて興奮するし、侮辱されて怒ったりする。母親を愛しながら母親から離れたいと願い、母親が良い顔をしないアーティストのライブになにがなんでも行きたくなる。
 この勇敢な映画が、どうかできるだけたくさんの13歳の女の子に届くことを願う。思ったことや感じたことで心を揺らしていけない道理はないし、「“大人の女性”なら感情的になるな」という尤もらしい説教を受け入れてはならない。もちろん13歳だけではなく、感情を出すことを叱られ、抑圧され、縛られているすべての世代の女性に届いてほしい。あなたのなかにも、複雑で大胆でいとおしい獣がいるのだ。

ハウジングファーストの重要性/サンドラの小さな家

 夫・ガリー(イアン・ロイド・アンダーソン)から精神的・身体的暴力を受けていたサンドラ(クレア・ダン)は、いよいよ命の危険を覚え、次の住まいの当てがないまま娘ふたりと共に家を出る。ひとまずホテルに避難したものの、ホテル暮らしは費用が嵩む。公営住宅は長い長い順番待ちだ。安全な家を早急に確保したいサンドラは、費用を抑えた家を自分で建てることを思いつき……

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2020年 アイルランド・イギリス
監督 フィリダ・ロイド
原題 herself

「ハウジングファースト」という言葉がある。ホームレス状態になった人が、なによりもまず最優先で安全な家を確保できるよう支援する方法・理念のことだ。
 サンドラが実践しようとするのは、つまりはこの「ハウジングファースト」である。しかし土地探しから難航する。最終的には、サンドラの母と交流のあったペギー(ハリエット・ウォルター)や、ガリーを知る建築業者のエイド(コンリース・ヒル)など、多くの人の厚意に支えられて初心者だらけの家づくりが進んでゆく。
 物語としては美しい友愛の光景だが、現実においては、こういったDVと住宅に関する問題が「厚意」や「友愛」のみに支えられてはならないのだろう。逆に言えば本作は、家賃補助と育児手当以外の公的支援がほぼ機能しない点が示唆深い。亡き親が遺した交友関係がなくても、友人がいなくても、建築業者の知り合いがいなくても、役所の窓口ただ一か所に助けを求めるだけで安全とプライバシーの保たれた家に入居できるべきなのだ。
 建材店でガリーと遭遇してしまったサンドラは、ほかの店で割高の商品を買わざるを得なくなるのだが、そのことをエイドに悪気なく「予算を考えるべきだ」と指摘される。DV加害者を避けるために行動範囲が狭まり、予定が変わり、出費がかさむ被害者の苦しさが胸に迫るシーンだ。

 警察庁の発表によると、パートナーからの暴力被害は18年連続で最多を更新している。いま世にいるたくさんの「サンドラ」が、すみやかに安心安全な家に暮らせるための仕組みがほしい。

www.asahi.com

「してみることにした」、の明るさ/僕はメイクしてみることにした②

 VOCEで連載していた『僕はメイクしてみることにした』(著者 糸井のぞ/原案 鎌塚 亮)が最終回を迎え、2月10日に単行本化した。

kc.kodansha.co.jp


 連載中(第7話)までのレビューはこちら。

toudai-gurashi.hatenablog.com

 改めて全話を読み通してみると、本作はタイトルが秀逸だ。「してみることにした」という響きには、身軽さときめきと少しの緊張と、もし自分に合わなければやり方や方向性をいくらでも変えていいという可能性を広々と感じさせる。
 一朗の挑戦は、絶対にできるようになるぞ!これを習慣化させるぞ!と気負ったものではなく、ひとつひとつがささやかな「してみることにした」の連続である。化粧水をつけてみることにした、ていねいに洗顔してみることにした、ベースメイクをしてみることにした……。だからなおのこと、「してみることにした」が必ずしも「次のステップ」や「複雑でむずかしいこと」でなくても良いと示唆する「どこまでやりたいか…そこに気づくのすっごい大事だと思うんですよね」というタマのセリフ(第4話)が引き立つのである。
 それを体現するように、メイクに対する登場人物たちの距離感や付き合い方は多様だ。メイクをこよなく愛するタマは、新作をこまめにチェックしたり、メイクやスキンケアについて語るポッドキャストを配信している。一朗の仕事先の東は眉毛を整えている。おなじ会社に勤める真栄田は日焼け止めのみ。友人の長谷部は、自身の考える「男の身だしなみ」の範囲外をよしとしなかったため、一朗のメイクを一度はきつい言葉で突き放すが、最終話ではメイクを始めていることが明かされる。彼もまた、軽やかな「してみることにした」の道にいるひとりである。
 長谷部が背負う「男らしさ」のプレッシャーは、メンズメイクと並ぶ本作のテーマのひとつだ。「してみることにした」の過程には、輝かしい成功体験だけでなく、恥をかくことや失敗することも大いに含まれている。メイクやスキンケアに限らず、じつは何事においてもそうであることを、長谷部が、ひいてはすべての「男らしさ」に悩む人々が実感していけたら、こんなにすてきなことはない。

 私が年齢と経験を重ねて学んだのは、戸惑ったり恥をかいても死なないこと、間違ったり失敗したり拒まれても大丈夫だということ、弱さを見せても良いということである。実際のところ、これらは信じられないくらい役に立つし、弱さや恥を話すと相手に親しみをもってもらえる。「わかりません。あなたの言う通りです。あなたが正しいんです」と書いてある席に座るのはとても快適だ。一部の人たちは些細なことでも自分を弁護するが、似たように、弱さや恥を晒すことは生死に関わると思っている人もいるだろう。へまをすると自分が消滅してしまうと思っている人もいるだろう。(グレイソン・ペリー著『男らしさの終焉』より)

filmart.co.jp

ホモソーシャル的価値観の内面化との戦い/ビルド・ア・ガール

 主人公のジョアンナ(ビーニー・フェルドスタイン)は16歳。イギリスの片田舎の退屈な日々に飽き飽きしながらも、作家になる夢をあたため続けている。家族7人の暮らしに経済的余裕は無いが、兄のクリッシー(ローリー・キナストン)は気の置けない友人のような話相手であり、両親の仲も悪くない。しかし、ジョアンナがコンテストで発表した詩がきっかけで家計が悪化してしまう。
 家族を貧困に追い込んだ罪悪感に苛まれるジョアンナに、クリッシーがロック批評のライター募集記事を差し出す。ロックも批評も未知の世界だが、ジョアンナはミュージカル『アニー』のサントラの批評を書き、大手音楽情報誌D&MEへ応募するのである。

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2019年イギリス
監督 コーキー・ギェドロイツ
原題 How to Build a Girl

 ティーンエイジャーの爽快な成長物語というジャンルで、まったく爽快ではない、しかしとても痛切で重要な、「コミュニティで生きぬくためにホモソーシャル的価値観を内面化する」過程を扱った意義深い作品である。
 音楽ライターとしてデビューしたジョアンナは、期せずして一家の稼ぎ頭になる。自分が家賃を払って家族を支えているんだという自負は、彼女の立ち居振る舞いを堂々とゴージャスにさせる一方、男性中心の編集部内の空気に抗いづらくもさせる。特集記事を書きたいと訴えるジョアンナに、特集記事の決定権を持つ男性社員が「ここに座って話を」と自分のひざを叩いて示すシーンはなんとも言えない気持ち悪さだ。断ったら仕事が得られないと察し、茶化しながら応じる姿には複雑な屈辱を覚える。
 ジョン・カイト(アルフィー・アレン)のインタビュー記事で編集部の評価を得られなかったジョアンナは、「人生を変えられるバンドは15か20しかいない。俺たちの仕事は本物以外をナパーム弾で蹴散らすことだ」という社員のアドバイスを踏まえ、執筆方針を変える。結果、曲に対する評価だけでなく、ミュージシャンひとりひとりのファッションや容姿までもこき下ろすようになるが、そんな彼女の記事は編集部が好む「イジリ」文化と合致して大いにウケてしまう。
 そう、ウケて“しまう”のである。ジョアンナは、攻撃的・露悪的な記事を書いて喝采を浴びる快感を覚えると同時に、この路線で生きていかなければ音楽情報誌コミュニティで居場所を失うと気づく。華やかな世界に陶酔しきったように見えながらも、彼女はじょじょに痛ましくなってゆく。しかし家賃を稼ぐにはこの世界にしがみつく必要があり、ホモソーシャル的価値観の内面化はいよいよ加速する。編集部の面々がジョアンナや彼女の家族を見下していることを知ったタイミングで、彼女はようやく、自分自身も周りの人間も傷つけてしまったと自覚して道を引き返すのである。
 D&MEを辞めたジョアンナは、自分が記事で酷評したバンドすべてに謝罪をするが、ジョンには謝罪とともにインタビュー記事の初稿とばっさり切った髪を渡す。「究極の犠牲は何か考えた。何がなくなったら一番悲しいかって」と語るその選択は、本作序盤、家族の収入を途絶えさせたことを悔やみ、「究極の犠牲を払ってジョー(※若草物語のジョー・マーチ)みたいに髪を切って売ろうかな」と迷っていたシーンを回収している。ジョアンナがD&MEの価値観を遠く離れ、もとの彼女に戻ったことが伝わるシーンだ。
 ジョアンナの新しい雇い主として終盤に登場するアマンダ(エマ・トンプソン)の佇まいは、すばらしく魅力的だ。「子供みたいに壊し続けてるだけ」のD&ME編集部のありかたとは真逆の、辛抱づよく試行錯誤し、ていねいに自分を作り上げてきた大人の女性と巡り会うエンディングは、年齢を重ねてゆくジョアンナの背中を力強く押してくれる。

「結婚」と書いて「就職」と読むか/ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

 南北戦争下のアメリカ。マーチ家のメグ、ジョー、ベス、エイミーの四姉妹は、それぞれ性格も好みも異なるが、マサチューセッツで仲睦まじく暮らしている。父は従軍牧師として出征中で、家計に余裕はない。しかし生活は愛情と思いやりに満ちている。
 ローレンス家との交流、日々のできごと、恋心のめばえなどを、現在はニューヨークを拠点に働く新人作家ジョーの回想を織り交ぜながら描く。

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Little Women
2019年 アメリ
グレタ・ガーウィグ


 女が自分の力で生きるなんて無理、いい夫を探さないと。そう言いきるマーチ伯母(メリル・ストリープ)に、ジョー(シアーシャ・ローナン)は「伯母様は独身……」と反論する。
 伯母はあっさりこう返す。
「私にはお金がある」
 コミカルで、でも猛烈に残酷なセリフだ。肝心なのは、この伯母がけっして意地のわるい人物ではないという点である。気難しくはあるが、彼女に姪を傷つける意図はない。
 伯母がしているのは、結婚という名の「就職」の話である。就労へのハードルや職業選択の幅が、今より遥かに不平等であった19世紀アメリカの女性にとって、結婚こそ自身の経済力に直結する課題だ。ならばより条件の良い結婚を、というのが伯母の──ひいては当時のごく一般的な──女性の幸福論であった。
 四姉妹のうち、長女メグ(エマ・ワトソン)と四女エイミー(フローレンス・ピュー)は結婚を望んでいる。が、エイミーが思い描く結婚は、メグのそれとはすこし異なる。エイミーがめざすのは資産家との結婚だ。伯母の理屈を踏まえれば、彼女こそ幸福で堅実な「就職」を志していると言える。
 エイミーは語る。「女には他に道がないの。女の稼ぎで家族を養うなんて無理。仮に財産があっても、結婚した途端、お金は夫名義に。子どもを産んでも彼の子どもになるだけ。女にとって結婚は経済問題なのよ」
 エイミーは、性差別的な社会に生きる女としての自分に自覚的だ。そして、この不平等な世をいかにサバイブするか腐心している。伯母がエイミーに「あなたはあの家の希望。ベスは病気、ジョーは見込みなし、メグは一文無しの家庭教師にお熱。あなたが姉妹を支えてゆくのよ。年老いた両親も」と期待をかけるのは、彼女が資産家と結婚すれば、マーチ家の経済面に好影響を及ぼすと考えるからである。
 だれよりも「就職」としての結婚を意識するエイミーは、末っ子でありながら、姉妹のなかで最も早く子ども時代の終焉を迎えている。ローリー(ティモシー・シャラメ)を巡るジョーとの三角関係といい、結婚相手の経済力をとくに重視しないメグとの対比といい、彼女はともすると嫌われがちな要素をはらんでいるが、本作当時のジェンダー観、結婚観、幸福観を映す説得力のあるキャラクターとして心に残る。

 ……と、ここまで「19世紀の」「当時の」と何箇所か前置きしてみたものの、現在の日本においても、女性の経済的自立は引きつづき困難な状況だ。非正規雇用の割合は女性が圧倒的に多い。主たる生計を男性配偶者が維持することを想定した社会では、19世紀のエイミーやジョーが苦しんだ問題が、未だに解決されていないのだ。

「結婚さえすれば」という発想は、それこそ社会の「構図」には目を閉じ、閉じられた市場(どれだけ自分を高値で売れるか)の中で自分がどれだけうまみを得るかというあがきの中に己を閉じこめていくだろう。陳腐な話で、個々の女同士が競争相手となるだろう。(栗田隆子著『ぼそぼそ声のフェミニズム』より)

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